第一章 開拓編 女性のくらし
生いたちの記録
佐藤 あさ子さん 八十歳(江幌)
岡山県からの移住
私は、静修の最北端、美瑛町との郡界に父母と姉と入地して育ったのですが、岡山県から移住して、静修開拓に入るまでの経過について、父母から聞いた記憶をたどってみると次のように思います。
大正元年の春、岡山県英田郡大原町から北海道へ渡り、一時旭川に落ち着いて一行は農作業のアルバイトをして一冬の生活費を備えたといいます。秋になり、美瑛町ルベシベに行き先がきまり、それぞれ小屋を建て準備にかかったとのことでした。
私はその地で、春名金太郎、安代夫婦の次女として大正二年三月五日に出生しました。その後に、ルベシベよりは条件のよかった地続きの静修地域へ移動したのですが、それは渡道して五年後の大正五年で、岡山県人が団体として静修に開拓の鍬を入れたのは大正五年ということになります。
入植当時は木材を喰ったといわれ、森林を開拓して、良質な木材は生活の大切な資源でした。江幌、静修地域は、三井物産株式会社が造材事業をして、良質材を切り出した後に入地して開拓を進めた土地ですけれど、昔のことですからまだまだ良い材料があり、木を喰って生活し、開墾作業を進めたことはほんとうでしょう。
上富良野町史にも、五町歩の森林を開拓すれば三軒位は生活出来たという記録もあると聞いています。私の父も、開拓当時には良質な木材が沢山あったので、ビール樽材として切り出し、生活費として活用したと聞いています。
ビール樽材は、長さ八尺、四寸幅で二寸厚さの規格に割るのですが、これを割って取れるナラ材が畑の中に、ごろごろしていたそうです。この作業も二年余で終りとなりましたが、開拓も進んで作物も栽培されるようになりました。
北海道名産サッポロビールと上富良野町とのつながりは、このように開拓のはじめ頃からあったことがうかがえます。
小学校時代から娘のころ
開拓当時の地域割は、今のように住民会組織や、行政区域もはっきりしていないので、地域区分もきちんと分離して考えないほうが良いのかも知れませんが、静修に特別教授所が出来て、静修や美瑛町ルベシベ、二股の人も一緒になって勉強していたものです。
開拓が進み、人口が増加すると教育に対する配慮もされて、明治四十三年には、江幌に上富良野村第二教育所が一教室で始まり、私が小学校に入学する頃には静修に一学級、静修特別教授場が設置されました。大正七年のことです。私は大正十四年三月、静修特別教授場第七回卒業生として、八名が卒業したのです。
この静修特別教授場が設置された頃は、開拓も進んで入植者も増えた時期でもあり、欧州大戦による豆景気によって、豆相場がよくて経済状況もよかったといいます。この時代は、美瑛町ルベシベや二股とも交流し、生徒も多くの人が静修特別教授場に通っていました。
このように美瑛町との関係は深いものがあって、娘時代には、お祭りや盆踊りなど、二股方面まで、姉妹が連れ立って遊んだことを思い出します。
ルベシベ川の上流は二股、江花へと続いていますが、この川にはマスがのぼり、付近の農家の人々はその時季になるとヤスで突いて漁をして、食膳にのせたものでした。今でも、ルベシベ川は清流で、ウグイなどが住んでいるといいます。
ルベシベ川の上流、二股地区にはフラヌイダムの建設も着々と進められていて、近いうちに完成し、水をたたえたフラヌイダムを、江花の千望峠を経て二股に見ることが出来るそうです。
学校間の交流も、江幌小学校と二股小学校は長い間続いていたし、中学校のあった時代は中学校同士の交流もあって、運動会の優勝旗のやりとりなど、思いうかぶことは沢山あります。今は学校の廃校、過疎による小規模化などで昔のおもかげはなく、ただ昔を懐かしむだけになって来てしまいました。
結婚と江幌での農業
昭和六年の碁もおしせまった十二月、佐藤兵次郎と結婚しました。江幌小学校を前方に見渡すことの出来る、上富良野村西十線北二十八号で、農業経営のスタートをきることになりました。
現在とは違い、農家の嫁は、農業経営にとっては重要な労働力であり、農業経営の規模を拡げるためには欠かせない存在で、日々、農作業の連続でありました。
結婚した頃は当然電気もなく、ランプと提灯という生活でした。開墾は進んでいましたが道路は悪く、馬車の輪だちも深くて、砂利も敷いていない悪路を収穫物のすべてを家の納屋まで運搬するという悪条件でしたし、すべてが手作業で、鍬と鎌が相手で、馬が最大、最強の動力であるという農業の姿でした。
我が家の農家形態は畑作が中心でしたので、食糧事情も水田農家の人とは違い、麦ご飯が中心で粗末なものでした。今は遠い語り種ですが、春のニシン、秋から冬にかけては塩マスという農家生活も古い思い出として、なつかしいようでもあり、苦労話の代表のようでもあり複雑なものがあるのも、私だけではないのではと思います。五十年余にわたる農業生活は楽なものではなかったという事に尽きるのです。
若い頃は、町へ買いものに出かけることも、たまにしかありませんでしたし、徒歩の外出です。自転車があり、それに乗れる人も少い時代で、今のように玄関先から乗用車でお出かけなど、夢のまた夢でした。
お祭りやお盆の行事は唯一の楽しみで、盆、正月の実家への訪問は、それこそ最大の楽しみと、心の解放につながるものでした。
冷害や、大きな戦争などもあって、作物の栽培の状況にも変化がありました。豆相場でうきうきした時代もありましたし、冷害による凶作が、東北、北海道を襲ったのは結婚の頃だったので苦労したものです。
江幌、江花の西側丘陵地は除虫菊が栽培され、一面が除虫菊の白い花で美しい風景もありました。こ
の頃は除虫菊ブームで、農家経済も潤いました。
戦時中は特に亜麻の栽培が記憶に残っています。今とは違い、肥料不足の中で食糧生産、軍需物資の増産に励んだこと、戦後の食糧不足は都市部は特にひどく、強制買い出し部隊が農村に押し寄せた話も聞きました。
今の農家は物が余って売れない、低価格で困るなど、大きな様変わりにおどろき、米は作るな、休耕、減反と、一粒でも増産しようとした時代の努力なんて、どこに行ったのだろうかと思う今日この頃です。
お蔭様で子供には恵まれ三男三女をもうけて、特別とはいえませんが教育もまあまあ受けさせ、それぞれ一人まえに成長したことは、私にとって嬉しいことだと思っています。六人中、三人は本州で、北海道には三人が、比較的近い所で生活していますので節季[せっき]には顔を見せてくれるし、長男夫婦や、孫も近くで生活しているので安心しています。
長いようで短い、そしていろいろな出来ごとがあった人生だったと振り返っています。
最近の私
お蔭様で、八十歳を過ぎて、まだまだ元気で、皆さんと普通に話が出来て、世間の人に相手になっていただける幸せを感じています。
週に一度のデイサービス、ホームヘルパーさんの温かい訪問も楽しみです。老人クラブにも、たまには顔を出し、古き友人とも旧交をあたためて、長い人生を振り返っています。
掲載省略:写真〜江幌農場で趣味の「ひょうたん」を完成品にしてご満悦のあさ子さん(平成元年頃)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子