第一章 開拓編 女性のくらし
母を偲んで
清水 ユキエさん 六十歳(東京都)
人生八十九年の生涯を終えた母(菅野サカエ)は、明治、大正、昭和、平成と実に四世代に亘る永い人生でした。
大正十二年、夫と共に現在(里仁)の地に分家してからは、冬は働きに出ている夫の留守を守り、夏は寝食を忘れての農作業、そして子育てと、開拓者の誰もが歩んだ道と思います。貧乏な暮しの中で両手で足りない程の出産をし、母自身も栄養失調になるなど、想像に絶する毎日の生活に身心の安らぐ暇も無く、只耐えに耐えぬいたこの時代の強き女性の一人だったと思います。
昭和初期、敗戦後の食糧難の頃に母の作る南瓜にイナキビを入れた黄色いお粥[かゆ]が一番のご馳走でした。五女の私は姉達のお下りを着たり履いたりしましたが、それが嫌で随分と無理を言っては母を困らせたものです。
父にはよく叱られましたが、不思議と母に叱られた記憶がないのです。不器用で細やかな事があまり得意でない母でしたが、私の為にタマゴを売って小銭を貯め、麻布を買って作ってもらったリュックサック。これを背負って行ったのが増毛町への修学旅行でした。初めて見る青い海に大歓声をあげた、あの楽しかった日が昨日のように想い出されます。
私が十七歳か十八歳の頃だったと思いますが。職場で盗難事件に巻きこまれ、親まで呼び出された事があり、参上した母は「この子の目を見て下さい。
犯人は後にいる」と力強く言って、決着を付けてくれた正義感のつよい母でした。
頑固な父に苦労させられながらも、晩年は暖かい家族の愛に包まれる日々でした。でも「今日のカレーライスは辛い」とか「甘い」とか「今日のご飯は硬い」「柔らかい」などと、時々わがままを言う母に、一に気くぼり、二に思いやり、三に自分の事だけ考えるなと、いつも言い聞かされた私にしてみるとちょっと矛盾を感じたものです。
昭和四十八年春の事「死ぬまでに一度はお伊勢参りに行きたい」と言う七十歳を越えた母の願いを聞き、親孝行をするなら今と思い、オムツは取れたと言っても油断するとお漏[も]らしをする娘二才十カ月)を抱いたり、おぶったりしながら忙がしく新幹線に乗り、親、子、孫三代のお伊勢参りとなりました。
窓際に陣取った母と娘は顔いっぱいに太陽を受け燥[はしゃ]ぐ娘をあやす母の顔は幸福感に満ちあふれていました。乗りつぎをして伊勢の街へ入ると、折りしも甲子園では春の高校野球が開催中で熱戦の声援があちこちより聞えておりました。娘は母に手を引かれ美しく咲きほころぶ桜の花の下で首をふりふり、ウルトラマンの歌を唄いご機嫌です。
神の国の入口へと近づき宇治橋を渡ると下には澄みきった五十鈴川、元気に泳ぐ鯉の群れに歓声を上げ、黄金色に輝く鯉など見事な数に、清める手を休め暫し釘付けになりました。広い杉木立の長い参道を奥へ奥へと進むと、背中がゾクッとするような冷気の漂う静寂の中を、母はガイドの説明を真剣に聞きながら内宮外宮と詣でました。千三百年前から、二十年に一度神宮を始め、社殿、神宝、ご装束すべてを新調し神様にお引っ越しをしていただくと言う大きな祭典が行われますが、これは世界にも類がないと言われます。
祖人様は生命の始まりとも言われ、一度は訪れたいと願った母の情熱に感心させられました。伊勢名物の赤福餅を美味しく頂き、三人の旅は京都から奈良へとつづきました。美しく古い寺院を心ゆくまで鑑賞し、遠く万葉を忍びながら大和路へと辿ります。旅の疲れをいやしてくれた慈光院は深い木立ちの緑に包まれた美しい庭園でした。茶菓子を頂き四方をながめていると時の経つのも忘れてしまう程でした。額に汗して孫の世話をしながら、めげる事もなく、歩きに歩いた史跡の探訪、向学心に燃えた母に深く心を打たれました。
八十九歳の長寿を全うした母を思う時、お伊勢参りの御利益を頂けたのではないでしょうか。あの想い出の地に母を偲び、今一度訪ねたいと思います。のちに母は旅の心を詠みました。
早春の 奈良に詣でて ひとめぐり
緑したしみ 寺苑に憩う
無理を重ねて働きぬいた老体は神経痛に悩まされ昭和五十八年春には高血圧の為に倒れ、半身麻痺の不自由な身となり、人の手を借りながら入院生活をする事になりました。しかしお盆が来ればいとしい内孫に背負われて、墓参りの出来る幸せな母でもありました。
掲載省略:写真〜會孫を抱く、81歳の時の母菅野サカエさん(昭和61年2月)
長い闘病生活の中で草花をこよなく愛し、想いを歌集に寄せ、めげる事なく毅然としていた母が、季節の良い時にお迎の来る事を望んでいた思いがかなったと言いましょうか、美しい花々が咲き誇るさわやかな初夏に帰らぬ旅立ちとなりました。
形見として貰った一竿のタンスは値打のない粗末なもののようですが、私にとっては値千金家宝ものです。沢山の知恵と想い出が引き出しの一つ一つに込められているからです。
今、ようやく六十路に届いた私です。母の生き方に感銘し、想い出を大切に生きて行きたいと思っております。
自 序
封建時代の明治三十八年、宮城県の農家に生れ尋常小学校を卒業して、大正八年十四歳の時、両親と共に北海道に移住しました。
大正十一年、十七歳で菅野善作に嫁ぎ生き長らえて八十五歳を迎えました。夫を亡くして二十年を過ぎ仏壇に向って読経諭していると、過去の想い出が堂々巡りをしています。
北国の貧しい農家で多くの子供を育てるために、朝は未明から夕暗くまで働き、余裕なく育てた子供達に今詫びる思いであります。それでも健康に恵ま
れながら成人となりましたが、戦争益々激しく長男次男を戦地に送り出し、B二十九は上空を襲い、戦々恐々の明け暮れも遂に昭和二十年終戦となりましたが、長男は関東軍憲兵でありましたのでシベリア抑留四年遅れて帰りましたので、二人共就職出来ず農業に精出しております。
子供達は皆成長し家庭を持ち、私もこれから孫の養育にと、家族制度を守り、家族を愛し家庭を愛しどこまでも明るく暮して行きたいと努めております。
平和と文化の向上の中に世代は変り孫も成人して、私を何処までも車で送ってくれるようになりました。孫達の成長に重荷を半分預けたようになり天地一切に感謝する時、すばらしい生涯が与えられた様であります。
これからは年寄りになった気持で庭木をいじり、花作りなどして鉛筆を取る事もなく、見聞もなく風膚としている私でしたが、昭和五十年寿会の会長さんに誘われまして、七十歳で老人大学に入学する事が出来ました。これからでも勉強してゆく人生があると思えば嬉しさも一入のものがありました。
老人の明るく和やかに過ごせる事のお話や趣味娯楽、研修旅行、文芸に至るまで豊富な講座がありました。歌の授業も二回程あり、先生に教えていただきましたが、私には難しく乏しい頭をひねっても出来ませんでした。卒業記念の思い出に良い歌を出している人達もありましたので憧れの思いでありました。
私はこれからでもご指導を受けて、自由に作れるようになりたいと考えていたのですが、そのうちに病気になり旭川の病院に入院してしまいました。
それから病いは続き、漸く退院出来たと思う間もなく、五十八年高血圧で倒れ左半身麻痺の状態となりました。
医師の治療やリハビリの効果がありまして次第に良くなり、楽になりましたので何かやりたいと思いましたが、左手は思うようにならないので右手に一本のペンを持ち念願の歌を書きたいのですが、基本も分らず感動もないのでは歌と申されませんので、日記がわりのメモとして私の心を書き始めたのであります。されど老弱の身には次から次と押し寄せる痛み、苦しみの繰返す入院がつづき幾年もの闘病生活となりました。
その間、やさしい師友に恵まれまして、ある時は励まされ、また支えられ書く事によってどんなにか私の心が救われたことで御座いましょう。
思えば夫が上富良野町議会議員であった昭和三十五年に初めて町立病院が建設されたのであります。この病院にて大変お世話になっている事の幸せを噛みしめ、思い出も深く心も和みます。
幾許もない余生でありますが、ペンとノートに慰めを求め今日も生きるのであります。
平成元年三月二十一日
菅野 さかえ
(平成元年三月に出版された歌集「沈丁花」 の中で書かれておりました「自序」を掲載させていただきました。)
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子