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第一章 開拓編 女性のくらし

里仁で生きた母の人生

数山 ノブさん  七十四歳(里仁)

   里仁に嫁いで

 母、数山アサノは明治三十一年五月三十一日、男五人、女五人の中の八番目として永山で出生したが、その後は神楽で育ち、結婚するまで過ごしていた。
 十八歳の時、夫数山伊之助の住むこの里仁に嫁いで来たのは大正二年であった。その当時の里仁は見渡すかぎりの森林のつづく山野で、熊がいつ出て来ても不思議ではないほどであり、開拓地の農作業は歳月をかけた自然との戦いでもあった。また想像以上に大変さを伴う毎日だったが、家族も四男三女と七人の子供にも恵まれて仲良く暮していた。

掲載省略:写真〜長男(勇)の百日記念に。アサノさん20歳(大正10年)

 しかし、昭和十年に夫が肋膜を患い高熱がつづき、それが元で無念にも三十六歳の若さでこの世を去った。その時に長男は高等科を卒業する年だったが、下の子供達はまだまだ幼く、先々の事を思い途方に暮れたのだった。
 またこの年は、夫のように三十代の若い男の人が四人も相次いで亡くなり、里仁の部落にとっても悲しい事が続いた。

   家族のきずな

 夫亡き後、育ちざかりの七人の子供をかかえ、そして十二町歩もある畑を耕作しなければならなかった。そんな生活の中で一家の担い手としてたよりにしていた長男(勇)が、昭和十七年十二月、樺太行きの命受けて、横須賀海兵団より海軍砕氷艦乗員の主計兵として出征していった。
 その頃の農業は、戦時中でもあり、また食糧増産と言う事で供出の割り当てもあって軍用燕麦、亜麻、裸麦、小麦、馬鈴薯などをおもに作っていた。
 しかしながら戦時中の物資不足、それに何と言っても女竃[おんなかまど]であったゆえに、不足の中でも特に女の人は品物がもらえなかった。女はどうしても遠慮がちになり、配給順に並んでいても順番通りに渡してもらえず、そんな時はいつも力の強い者が品物を持って行ってしまう。何度もいやな思いをし、その事がいつも情けなくて本当につらかった。
 でも有難いこともあった。食糧難で切ない生活をしていた時に、樺太で任務中の長男からときどき荷物が届いた。当時の海軍では毎月二回に分けて、洋羹、黍団子、カルミン、軍手、軍足等の配給があり、軍隊生活の中ではほとんど衣食に困まる事はないので、配給された食料品などはいつも家に送ってくれたのだった。
 休暇で外出する時には、漁師が喜ぶタバコ「ホマレ」を持参して浜に行くと、その頃では貴重な品であった煮干四`をタバコ二個で交換してもらえたそうである。また冬になると鮭の切り身を酒粕に漬けては、コーヒーの空缶等に詰めて送ってくれたのだった。その当時、私達の手に入らないそれらの高価な食料品をいつも隣近所に御裾分[おすそわ]けしてはよろこんでもらえた。
 その長男が無事に帰還するまでの四年間、十二町歩もある田畑を女、子供だけで耕作するのは本当に大変だったが、その頃(十八年〜終戦まで)各部落の出征家族、母子家庭、子供家庭などには援農隊の支援があり、五人から十人くらいの人達(馬は使えなかった)が手伝いに来てくれたので随分と助けてもらった。そして子供達には、小学校を卒業した長女に「プラウ」を握らせたり、小学生の男の子には馬の轡[くつわ]を持たせたりしながら、家族全員で助け合い、どうにか守る事が出来たのだった。
 終戦の二十年九月、長男が無事に復員し、翌年の二十一年十二月、横山ノブ(中富良野、横山家二女)二十四歳と結婚した。そのあと昭和三十年には長男と二人で、息子三人(二人は分家一人は婿 を二カ月の間に相次いで結婚させる事が出来て、本当に良かったとひと安心した。

   不思議な体験

 一帯が雑木林のつづく密林で覆われていた頃で、開拓当時ならではの不思議な体験をした事があった。ある夏、雨の降る日に病気の子供を背負い、歩いて街の病院へ連れて行ったその帰りの事だった。家に着く頃には大分夜も遅くなっていたが、家の玄関先まで来ると、なぜか其処には大きな川が出来ていてどうしても渡って行く事ができない……。目の前が我家なのに入れないのである。家の中では子供達の話し声や騒ぐ音、泣いている声が聞こえるのに……。雨の中で子供を背負って、どうする事も出来ずにその場で夜を明かした。目も赤く腫れあがるほど疲れ果てて、泣きくずれていたが、明け方に気が付いてみると、軒下にいたのだった。
 あの夜のことは「キッネ」に化かされたんだと、後で笑い話になったが、子供達にはときどき話して聞かせていた。当時の里仁では、このような出来事があってもおかしくない程、すべての関わりの中での共存生活の営みであった。そしてこの話は今だに言い伝えられている。

   幸せだった晩年

 早くに夫に先立たれた母、戦中、戦後と幾つもの困難を乗り越えて来た母、そのとき、その時代の空気が濃厚にしみ込んでいるこの里仁で、八十六歳までしっかりと生きて来た。それは一言で表わすことが出来ない程の豊穣な暮しと、七人の子供と共に経
て来た証があったからである。
 昭和四十九年には、社会福祉協議会より優良母子家庭としても表彰された。母は体が丈夫だったので五十六年に八十四歳で小玉病院に入院するまでは、病気らしい病気はしたこともなく、毎日農作業の手伝いをしていた。
 母の病気が「胃ガン」である事を子供達は知っていたが、母には言わなかった。二年間入院していたその間に、母と色々な会話をする中で「食欲がない食べられない……」などと、母が言う度に「それが癌なんだよ。食べられない事が癌なんだよ」と、いつも笑い話をしながら暗示をかけて言ったが、母は「まさか、癌ではないさ……」と決して本気にはしなかった。
 亡くなる最後まで何もしらずに、子供や孫達に見守られながら、それは母にとって本当に幸せな八十六歳の生涯だったと思う。

掲載省略:写真〜母アサノさんとともに里仁を見つめてきた樹齢二百年以上といわれるハルニレの大木。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子