第一章 開拓編 女性のくらし
里 仁
里仁[りじん]は、北を美瑛町に接し静修、江幌、草分地域に囲まれた、面積七八三f(平成六年現在)を有し、平成九年四月現在四〇戸、一五九人の地域である。
里仁地域には四つの開拓系統があり、この他に多くの単独入植者が入っていた。阿波団体は明治四〇年に原田徳次郎を団長に徳島県から入植、豊里団体は明治四〇年に宮城県から、守屋熊次郎を団長に約二〇戸が入地した。明治四二年頃、美瑛の田中亀雄が貸し付けを受けて現在の沼崎地区を開いたのが第二マルハチ牧場であるが、大正二年に旭川の沼崎重平が買い受け沼崎農場となった。明治四二年、津郷三郎によって開かれたのが津郷農場であるが、昭和一〇年に村上盛が買い取り実質は村上農場となったが、すでに地名となっていた津郷がそのまま残った。
明治四三年に神山という人の家で寺子屋方式の教育が始められたが、翌四四年四月、学校建設の認可を受け経費全額四八二円六五銭を地元負担で校舎を建築した。同年一〇月二五日、生徒数二八人の上富良野村第三教育所が開かれ、大正四年に小学校に昇格し里仁小学校となった。学校名は当時の村長塙浩気の命名である。この里仁小学校も昭和四八年に閉校し、上富良野西小学校に統合されている。
明治三二年一一月に旭川−上富良野、翌三三年八月に上富良野−下富良野間に鉄道が開通して、旭川と下富良野は鉄道で結ばれたが、里仁地域の中央を通過するのみで、その恩恵はなかった。鉄道開通前は、農業生産物や生活物資の流通路として里仁、草分地域はその要衝にあった。この地域への入植についても鉄道開通後に本格化することになり、開拓は駅を中心とした市街地から周辺に広がるという形態が早期に形成されることにもなったが、地域念願の美馬牛駅が開業したのは、上富良野開基から三十年程遅れる大正一五年であった。停車場設置許可はその前年だったが、大正一五年の十勝岳噴火泥流災害は、上富良野・美瑛間の中間駅の必要性を改めて認識させたのであった。
このように地理的、経済、流通の面からも辺地であったため開拓が最も遅く始まった地域で、組織的な団体、農場、牧場は明治四〇年以降からだった。三〇年代にも単独入植者はあったようだが確かな記録はなく、ただ町史に明治三六年沼崎地区入地の桜木由五郎の名が見られる。また西一〇線北三三号、現在の共進に藤田という人がいて上富良野で初めて、大正八年から除虫菊の栽培を始めたと記されており、藤田は岡山県から種子を取り寄せたという事で、これが里仁地域に広がり約三〇戸の除虫菊耕作組合が作られた。第一次世界大戦後の農作物価格の大暴落で窮地にあった者が、除虫菊で一息ついたこともあったといわれる。
里仁は大正六年の上富、中富分村再編で第三部となっており、地域の名称は豊里[とよさと]と呼ばれ地域の祖の豊里団体の名を冠していた。一方では青年団と婦人会が「北富[きたとみ]」と称し、一地域に豊里、里仁、北富の三名称が混用されていたため、当時の小学校長・熊谷二三男が中心になった統一主張を入れて、時の区長・荒猛が学校名を生かし「里仁」とした。しかしこの後にも地区名称のいきさつがあったが昭和三六年に行政区になった際に、町の意見も入れて再び「里仁」となり現在に至っている。
また里仁には今も開拓当時を物語るものが残っていて、共進地区の数山勇宅の庭には樹齢二〇〇年をこえると言われる「ハルニレ」の大木が悠然と聾え立っており、明治時代に建てられた(誰が建てたかは不明)家屋も存置されており、人事を尽くした先人の苦労や、その偉大さが偲ばれるのである。
豊里、里仁、北富(富良野の北の地の意味だろうか)いずれをとっても『人情に富む豊かな里』。そんな先人の思いが脈々と受け継がれている現在の里仁と言えるのではないだろうか。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子