第一章 開拓編 女性のくらし
母なる大地に生きて
清野 ていさん 七十八歳(草分)
大正八年一月、父吉田貞次郎、母アサノとの間に男二人、女四人の次女として、現在地草分において生まれた。
学校は創成小学校(当時は上富良野尋常小学校)に通い卒業と同時に、北海道庁立深川女学校に進み、四年間の寄宿舎生活を送った。その後、上富良野に戻り、あまり積極的に関わった訳ではなかったが、草分女子青年団で活動をしていた。
女子青年団時代には、札幌で全道女子青年研修会が行われ、上富良野村からも代表二名が選出されて、その一人として私も参加した。講演を聴いたり、料理講習会や農業問題などについて、全道各地から参加した人達と学び、また交流できたことが印象に残っている。
父のおしえ
父は三重県津市で生まれ、十六歳の時(明治三十三年)両親と共にこの地に移住した。明治四十三年、二十五歳で母アサノ(二十一歳)と結婚し、のちに大正八年六月、父三十五歳の時に上富良野村長となり、昭和十年まで四期、十六年間つとめていた。丁度、私が出生した年から女学校を卒業した年でもあった。
その後、父は北海道製酪販売組合連合会(現、雪印乳業梶jに勤め、札幌に居住(昭和十二年〜十五年)する事になり、私は父に同行し、身の回りの世話をしながら料理やお花を習っていた。
私は父に叱られた事がなかった。いろいろなことをいつも無言のうちに教わり、父を尊敬していた。
公職を離れてからは、畑や田んぼを一緒に作ったり、上手ではなかったが一生懸命に働いていた。常に多忙の日々であった父をいつも支え、共に難難辛苦[かんなんしんく]を乗り越えてきた母にとって、父が毎日家にいるその頃の生活を母は一番喜んでいた。
晩年はおだやかな生活であった。その父も昭和二十三年、六十七歳で生涯を終えた。
掲載省略:写真〜昭和8年当時の吉田家の家族 左端が清野ていさん、16歳の時
夫のこと・息子のこと
昭和十五年十一月、清野達と結婚し、夫は陸軍士官学校を卒業した軍人だったので樺太に行き、二年半程暮していたが転勤が決まり、十七年八月上富良野に帰って来た。その後間もなく終戦を迎えることになり、早く帰って来て本当に良かったと思った。
しかし、夫は終戦によって職を失なってしまい、草分に帰ってきてからは、苦労しながら慣れない農作業を十年間していた。
その後、昭和三十年に自衛隊の職員として、夫は上富良野駐屯地業務隊に勤務することになった。四十五年に退職するまで、その間は私一人で田圃を耕作していたが、夫の退職後はしばらく二人で農業を営んでいた。
平穏な生活の日々であったが、夫が糖尿病を患い旭川医大に二度の入退院を繰り返しながら療養をつづけていたが、昭和五十七年に七十一歳で夫は亡くなった。
夫が亡くなった時、横浜に住んでいる一人息子は「これからどう暮して行くか、かあさんが好きなようにすればいいよ」と言ってくれた。それに息子の家には、私がいつでも身一つで遊びに行けるように、また不自由なく滞在が出来るようにと、すべて整っている私専用の部屋を設けてくれたのである。その心くぼりに甘えて、冬が訪れると毎年十二月から四月にかけて、横浜へ行っては楽しんで来るようにしている。
掲載省略:写真〜鶴岡八万宮にて、長男とていさん(平成8年春)
命の恩人
十勝岳の大爆発があったのは、私が八歳(小学校二年生)の時であった。気がついた時には泥流が目の前にきていて、泥流の高さは私の背丈ほどもあり、家が浮んではつぶれて流されて行くのを見た。
妹は母が背負い、兄と私と祖母の五人で田んぼの中を泥だらけになって逃げたが、逃げる途中で祖母が流されて亡くなってしまった。
丁度、私の家が造作中だったので、この日は藤森左官屋さんが仕事に来ていて私を背負って逃げてくれた。自分一人でも逃げるのがやっとの状況だったのに、私を背負い田んぼの中を滑っては転び、起きては背負い、何度も何度も転びながらそれでも私を離さずに逃げてくれた。
この十勝岳の噴火によって本当に大勢の人達が亡くなった。私にとって藤森さんは命の恩人であり、あの時藤森さんがいなかったらきっと私は生きていなかったと思っている。
郷土館に現在も泥に埋まった自転車と一緒に写っている人≠フ写真が展示されているが、あれは藤森さんが自転車で仕事に来ていて爆発に遭い、私を助けるために自転車どころではなく置き去りにし、泥流がなんとか収まったので取りに行った時に写した一枚である。
私の家はなんとか流失されずに残ったが、家の中は泥が流れ込んでとても住める状態ではなかった。水田や畑、そして道路も線路も全て泥流によって埋没してしまい、あまりにも変り果てた村の姿に人々は立ち上がる術[すべ]を失ったのである。
しかし、当時村長であった父は「なんとかしなければ」と言う開拓農民としての強い意思が復興への原動力になったのだと思う。そして「もう一度やろう。もう一度開拓を始めよう」と富良野川の復興作業、流木の除去、鉄道線路の復興にと自らの信じる道を貫いたのだった。
徐々に作業が進む中で、流木を利用し、漸く歩くための道路として一本橋(板橋)が出来た。そして街の学校も授業を開始する事ができるようになり、私達も家が復旧するまでの期間は、市街の叔父(吉田商店)の家にお世話になって、しばらくの間は上富良野小学校に通っていた。
藤森さんはその後、郷里の四国に行かれたが、子供さんとは今でもお付き合いをしている。藤森さんは職人としても丁寧な仕事をされる人で、爆発の際に流失されずに残った家の壁は七十年以上たった今でもしっかりとしており、五、六年前に孫さんが来られた折りに「おじい様に塗装してもらった壁ですよ」と見せてあげた。
今、静かな生活の中で
夫が亡くなってから知人の勧めもあり、老人大学(現、いしずえ大学)に七年間通い楽しく過ごした。年齢が違っていてもいろいろな方々と出合い、今でもその頃の同級生に会うと思い出話しがつきない。
現在は体調が悪い訳ではないが、週一回ヘルパーの派遣をお願いしている。訪れるヘルパーさんには郵便物の投函等をしてもらっているが、あとはお茶をのみながら最近読んだ本の話をしたり、若い人たちとおしゃべりするのは楽しい。何よりも年寄りの身になって、また相手の立場になり色々な話を聞いてもらえる事が本当に有難いと思っている。
毎月一回、社会福祉協議会で行っている昼食会にも参加したり、健康づくりにと毎朝六時に起床してテレビ体操をしている。そのあとでゆっくりと朝食をとり、また朝晩の二回それぞれ十五分間ウォーカを踏み、たっぷりと汗を流す事にしている。
それに少しではあるが、家の回りにある畑を耕してアスパラ、男爵いも、南瓜、大根、茄子などを作り、収穫した野菜をダンボールに詰めては横浜の家族を始め親類、友人、知人などに毎年送っている。こうして野菜を送り、みんなに喜んでもらえる事が私の生きがいにもなっている。
今、歴史を顧りみて、誇り高き先駆者たちの汗と涙を思いながら、生まれ育ったこの土地への愛着といとおしさ……。常に生きがいの原点をみつめて、これからの日々も静かに過ごして行きたいと願っています。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子