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第一章 開拓編 女性のくらし

草 分

 上富良野開基の地が草分[くさわけ]である。おそらく物事の始まりや、もとを作る事を「草分」という事から、その名が付けられたのであろう。
 上富良野市街地から美瑛方面に進んで西二線北二七号附近から国道の両側が草分地区となっており、面積約一六九〇f(平成六年現在)、平成九年四月現在一〇八戸、四一六人の区域である。草分地域を形作ったのは三重団体の外に、明治三七年貸し付けの堀川牧場、明治四五年の金子農場があり、単独や集団での入植が加わって集落が形成された。
 北海道開拓に熱意を燃やす一人であった田中常次郎が中心になって富良野三重団体を組織し、明治三〇年二月二八日、第一陣三〇人を選び四日市港を出港、一週間後に小樽港に着き、初めて北海道の土を踏んだ。平岸三重団体にいったん落着き四月一二日、田中常次郎を隊長とする八人の先遣隊が、入植地である富良野村字上富良野西三線北二九号の一七五番地に到達した。そこに一本の楡の木があり一行はその根元で野宿したというが、この日こそが上富良野に初めて定住のため入地した日であった。
 初期の開墾は入植区画の伐採作業だった。切り倒した木は開墾小屋の建築資材に使う外は野積みにして燃やしたという。こうして開かれた土地を耕すが、本格的な収穫が得られるまでには三年程かかり、この間、食糧は主に旭川まで買いに行かなければならなかった。持って来た資金で食いつながなければならず、明治三二年に上富良野まで開通した鉄道の延長工事の人夫や、冬山造材の仕事は貴重な収入源であった。
 明治三二年に雑貨・金物の金子商店、蹄鉄兼業の松井鍛治屋、森川旅館が相次いで、また大正元年に一色商店が開業、西二線北二八号に大正三年創業の伊藤木工場、二九号には大正七年創業の分部木工場があったが、市街への移転や泥流災害などで現在はその痕跡も残っていない。また上富良野の宗教の始めである専修寺説教所が、開拓早々の明治三一年に寺小屋も兼ねて西二線北二八号に設置されており、当時の人々は宗教を心のより所にしていた事が伺える。現在は専誠寺として栄町三丁目にあり「専誠寺学園上富良野高田幼稚園」が併設されている。
 入植から三〇年が経った大正一五年、憩の楡周辺一帯は肥沃な水田が広がっていた。田植えの時期を迎えた五月二四日、十勝岳の大爆発で草分地区にも多くの死者、不明者を出し、厚い泥流が農地を埋め尽くした。硫酸分の強い噴出物を含んだ泥土と、多量の岩石に覆われた田畑を眼前にして、被災地復興と放棄の両論が闘わされたが、当時の村長吉田貞次郎は復興を決断、国と北海道の財政支援を受け村民共々、長い時間と膨大な労力、資金によって現在のような水田、畑作地帯に戻されたのである。
 明治三〇年四月一二日田中一行の夢の枕木となった楡の木は、上富良野の開拓の記念樹として守られていたが枯れてしまったので、昭和二一年に「憩いの楡記念碑」がその地に建立され、昭和五五年二月二六日、史跡として上富良野町指定文化財となった。また上富良野の礎を築いた田中常次郎頌公碑が建てられた。
(大正五年五月に専誠寺境内。後に草分神社に移設)。
 また草分は吉田貞次郎を始めとし、金子農場主の金子浩、田中常次郎の子息・田中勝次郎の三人が村長、町長として名を連ねており、人材に恵まれた地区でもあった。
 平成九年、開基百年を期し、その礎の地に開拓記念館が建設された事は、先人の開拓魂を受け継ぎ、母なる大地を守り育てて来た草分地区にとって、その意義は大きい。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子