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第一章 開拓編 女性のくらし

日新に根を下ろして六十六年

佐川 千秋さん 八十四歳(日新)

   城県に生まれ育つ

 大正二年十月、宮城県の水田農家に七人きょうだいの末娘として生まれた。
 子供も働き手の時代で学校も高等科に進む人は少なく、私も高等一年まで行ったが一クラス七人であった。
 十四歳(数え年)から家業を手伝い「ダラ担ぎ」と言って、街の家から糞尿[ふんにょう]を貰って来て田圃に撒[ま]くのが、姉と姪と私三人の朝食前の仕事で、肥桶を棒で担ぎ三`の道を運んだ。収穫期には一俵(六十`)の米を背負って二百間(六百b)の坂道を中出しするのが一番辛い仕事であった。
 冬は和裁と踊りを習ったが、これは女の嗜みとして結婚前に身に付けるものとされ、男は水引きと謡[うたい]が習わしであった。踊りは後々の楽しみとなり、孫が通学のため街に仮り住居をしていた時には、孫の面倒を見ながら友人の狩野美よせさん達の白百合会に入れて貰い、しよっ中踊った。
 また宮城県はお神楽も盛んで「笹流」の座主であった祖父(夫の)は渡道の際に衣装や太鼓、面など多くを持ち運び、秋祭りには百人もの踊りで賑わい、地元のみならず中富良野、山部方面まで出かけ大正十四年まで続いていたが、十勝岳の爆発で総てを流され途絶えてしまったとの事であった。

   結婚・佐川団体へ

 親同士の実家が隣町で付き合いがあった事から、夫の従兄が鳴子温泉に湯治に行った際に結婚話があったそうで、祖母に写真を見せられたが皆の前では恥ずかしく、隠れてこっそり見た。良いも悪いも無くその晩のうちに決まってしまった。
 父は、北海道はトウキどやイナキビばかりで食べ物が悪いからと心配したが、母は度胸がよかった。その頃、兄が旭川近文[ちかぷみ]の松岡木材で働いており、近くに頼れる身内が居る事と、私が小学校の修学旅行で初めて汽車に乗った時から、ずっと「いつかまた汽車に乗りたい」と言っていたので、その思いを叶えてやりたいとの気持があったからだと思うが……。
 結納金八十円(夫の話では百円だったそうだが)は立振舞の費用と旅費になった。これも後で聞いた事だが、夫が私の事を知ったのは結婚の三日前で、親戚の山仕事に行っていたら「あさってお前の嫁が来るから帰って来い」と呼びに来られ吃驚したそうであった。
 数え年十八歳になった昭和五年三月、郷里の迫[はさま]町[ちょう]を発ち汽車と船を乗り継ぎ三日がかりて上富良野に着いた。憧れていた汽車の旅ではあったが、さすがに遠く飽きてしまった。嫁入り道具は着物などの竹行李二個と布団で、兄が行李を背負って送って来てくれた。
 上富良野に来て一週間は仲人の伊藤善夫[ぜんぶ]さんの家に世話になったが、その間は毎日ハーモニカを吹いて遊んでいたのだから、まだまだ子供であった。
 親も心配だったのか若しもの時の為にと二十五円持たせて呉れた。当時は船賃が高かったと思うが、そのお金は何に使ったのか定かではない。
 三月十二日結婚の日は、朝の七時から「あんもと髪結い」で支度をして、迎えの馬橇で夕方佐川家に着いた。お祝いの膳は夫の伯父の手料理で、主賓の校長先生を始め部落の人や親戚が集まり、皆で囃[はや]しながら「そろった餅」をついて振るまい賑やかであったが、当時、餅は最高のご馳走であった。
 この日は、宮城県では山の神(お産の神様) のお祭りで、昔から「荒れる日」とされていたが、上富良野も大荒れで吹雪のため道が無くなり、結婚式の客がやっと家に辿り着いたと言う事であった。

   佐川家の家族となって

 夫の亀蔵は長男で二十二歳、両親と九人きょうだい、それに奉公人の大家族で、長姉は嫁いでいたが末の弟はまだ乳を飲んでおり、家は七間の長屋であったが両親は離れに住んでいた。
 十五町歩余りの畑を耕作しており、開墾が始まると「根株回[ねかぷまわ]り」と言って、山林を開いた畑には沢山の切り株が残っており、その際[きわ]をひと鍬ひと鍬手起こしをする力仕事が何日も続き、初めての畑仕事は辛いものであった。
 家畜も馬を始め豚・緬羊・鶏などを飼っていたが、とり分け馬は一家の生計を支える大切な存在なので朝起きると先ず馬の世話をして、それから家族の朝食の支度をした。馬の飼料は夏は青草や茅で、日の出ダムの辺りまで刈りに行き、冬は稲藁や豆殻を与えるので冬期間には何度も、中富良野の水田農家に一日がかりで藁を買いに馬橇で出かけ、馬が疲れて帰るのでお湯を沸かして置いて飲ませたり、体を拭いて労[いた]わった。軍馬に徴用されて大変な時期もあったが……。

   出産・育児

 二男四女と六人の子供を出産、長男は実家に帰って産み、二人目からは相馬産婆に取り上げて貰ったが、本家の義姉や近所の人にもお世話になった。お産の日まで働き産後は一週間で畑に出て、つわりの時は酸っぱいものが欲しくてグスベリを食べた。
 姑は宮城県の名門と言われた豊間[とよま]女学校を出ており子育てが上手で、私の子供にもイロハニホヘトの文字を教え、また貝原益軒の養生訓「女大学」を旨とし食べ物は粗末にせず、山菜を摂り、魚は頭から骨ごと食べさせるなど躾には厳しく、そのせいか夫は八十八歳の今も歯が丈夫である。また姑は達筆で夫が出征の際に贈った寄せ書きは立派であった。
 その姑も五十代半ばで中風に罷って半身不随となり、娘達が時々見舞に来て介護を手伝って呉れたが、姑は「千秋でなければ駄目だ」と言って私を頼りにしてくれたが、八年間患い、両親共に六十五歳で亡くなった。

掲載省略:写真〜青森のいとこが来た時に息子、娘夫婦、孫たちと自宅前で。右から3人目千秋さん(昭和40年頃)

   主婦として

 常時十人以上の家族で、朝は四時に起きて四升のご飯を炊いた。麦が大半で米はほんの少量なので、子供の弁当に米を取ると麦だけになり、朝食の残りを笊[ざる]に入れて畑に背負って行き、昼食は水かけご飯に塩引き(塩鱒)と鰊漬けがおかずであった。
 水も五百b程下りた沢の湧き水を一斗缶に汲み天秤で担ぎ上げ、八升樽に入れて背負って畑まで持って行くのである。特に冬の水汲みは大変で雪を融かして風呂水にした事もあったが、後に馬橇で運ぶ様になった。
 鹿の沢まで通い作しており赤ん坊は一日中、畑の小屋に寝かせておくので体中にハエが集[たか]り、まるでテレビで見る難民の様であった。暗くなるまで働き熊が出るので麦殻を燃やし松明[たいまつ]の様にして帰った事もあった。
 冬の日課は、子供は麦つぶしで主婦は蕎麦挽[そばひ]き、一日中挽き臼を回しても一斗がやっとで、それも、大きな丼で何杯もすするので二食分しかなかった。
 夫が召集された昭和十八年から終戦までは、長野県や旭川師範学校の学生が授農に来てくれ、夜になると柔道などをして部屋いっぱいにあばれ回っていたが、何の楽しみもない山奥での畑仕事の明け暮れなのでストレスを発散していたのだと思うが、昨年その人達と会う楼会があり思い出話の中で「玉子が一番おいしかった事が忘れられない」と言っていたが、食べ物も充分でなく薄暗いランプの下での不自由な生活の中で、良く辛抱して呉れたものだと頭の下がる思いであった。

   思 い 出

 楽しみと言えば年に一度のお祭りぐらいで、その日だけは仕事が休みになるので朝早くから歩いて街まで出かけたが、家の事が気になり三時には帰らなければならなかった。
 高年になってからは、老人大学が始まった年に夫に勧められ、友人四人と一緒に六年間通った時期が最高に楽しかった。婦人会や年金友の会の旅行そし
て五年前、孫の結婚式に夫婦で千葉県まで行った折、古里の伊豆沼や男鹿半島などを回って来た事が良い思い出となった。
 汽車に乗りたい一心で日新に来て六十六年、七十八歳まで働いたが、子供達も大事にしてくれて、今は幸せな余生を送らせて貰っている事に感謝しながら、夫共々これからの日々を送りたいと思う。

掲載省略:写真〜夫亀蔵さん(88歳)と現在の千秋さん(平成8年4月)

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子