第一章 開拓編 女性のくらし
日 新
日新[にっしん]とは「日に新たなる」の意味を込めた農場主新井鬼司の命名である。東中地域に次いで広く、面積約一六九〇f(平成六年現在)の地域である。(平成九年四月現在、一四戸、五九人)上富良野市街から北(美馬牛側)に向かって進み富良野川の富来橋[ふうらいばし]の手前から西二線に入り、富良野川本流の流れに添って登る、つまり日の出、草分の両地区を通って日新地区に入るのである。
明治三四年から四二年までの八年間を成功期間として、埼玉県北埼玉郡の新井鬼司が約六四八fの貸し下げを受け、新井牧場を開いた。同四三年に五分五分の開き分け方式で、佐川団体一六戸の入植を受け入れた。この他に明治四三年頃できた第一作佐部牧場があり、これは大正二年に細野牧場に変わった。
日新地区は、木材資源が豊富で新井牧場では入植初期には造材が中心になり、成功審査の際には二〇〇fの牧場が開かれていた。この原木の搬出はフラヌイ川(現富良野川及び支流)流送で行われていた。(大正時代の様子を知る古老の目撃証言として、おびただしい巨木の切株の数々と、飯場に使用した家の残骸と、富良野川の流送のあとだったと記されている)新井牧場時代を迎えてから後、初めて農業をして住み着く事を目的とした入地者が出たが、この時代の人々は大正中期の豆成金で飛躍的に開墾したものの景気の後退でほとんど出てしまった。
忘れてはならないのは、大正一五年の十勝岳噴火により、町内に大被害を及ぼした噴火泥流が、この地を通過し平坦地に出たと言う事である。日新地域で合計六五人もの死者、行方不明者が出て尊い命が奪われた。また佐川団体の神楽は開拓時代以来の呼物で、一六戸の大地者は皆神楽が上手で、秋の祭りに奉納披露した。道具も全部揃って、お面だけでも三箱(四三面)に及び衣装も揃っており、文化財になるほどの物と言われていたが、この貴重な財産も十勝岳爆発の時に佐川家と共に流れてしまった事は本当に惜しまれる。
日新地域での学校の歴史は、明治四四年、新井牧場の大地者が増加した為に新井鬼司が学校を建設し村に寄付をしたことに始まる。同年二月二日に上富良野第四教育所として開校、大正六年に日新尋常小学校と改称されたが、十勝岳爆発の泥流により校舎が流失した。(児童一一人、職員家族四人死亡)この四`下に仮校舎を建て、その年六月一六日には授業が再開された。
昭和二五年四月に上富良野中学校分校が併置され、二七年に日新中学校として独立したが四一年、上富良野中学校に統合された。同五四年三月には遂に日新小学校も閉校(上富良野西小学校に統合)し、日新地域での学校の歴史は終りを告げた。
日新の学校閉校は、日新ダム建設によって日新、清富地域に水没家屋三六戸、水没面積七三fが出た事も大きく影響した。日新ダムは大正一五年の十勝岳噴火泥流災害以後、富良野川の酸性鉱毒水対策として、昭和四一年に着工後八年間かけて建設され、四九年八月八日竣工式を行い盛大に祝った。
日新は、林業で開け、農場、牧場で発展しながら泥流災害の試練も乗り越えて来た地域である。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子