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第一章 開拓編 女性のくらし

過ぎ去った八十年

対馬 きよのさん  八十一歳(清富)

 私は大正五年四月十五日、父竹内宗吉、母ハマの二女として、松井牧場(清富)で生まれました。
 両親は岩内郡発足村で営農していましたが、他人の債務保証のため全財産を人手に渡し、祖母と子供三人(兄二人、姉一人)を連れ六人家族で、この松井牧場へ大正元年に入植したのでした。私の育った頃は荒地開墾の最中でしたし、また貧乏のどん底だったと思います。
 小学校は、新井牧場の奥の、鹿の沢にある日新小学校で、清富の子供が通学するのには近道をしても山越えをし、熊笹を押し分けて進むような所を通っても二里位(八`強)だったので、女の子は私だけでなく殆ど登校出来ませんでした。
 その様な事で文章を書く事もおぼつかない私ですが、実弟の竹内正夫に手伝って貰い、この地域の昔の様子など記憶に残っている事を書かせて頂く事にしました。
 松井牧場内には、奇麗な清水の小川が三本流れており、その三本が合流してピリカフラヌイ川となっています。三本の川にはイワナ・鰍[かじか]・ザリガニが沢山住んでいて、ちょっと釣糸を垂れると簡単にイワナを釣り上げる事が出来たので、私共の知らない市街の人が時々釣りに来ていました。
 山の中での暮しは魚などはめったに食べられないので、イワナ・鰍・ザリガニ等を捕って来て、煮たり焼いたりして食べるのが誠に美味しかった事が忘れられません。釣り遊びは又面白く、鰍・ザリガニは二重(鰍に鰍が、ザリガニにザリガニが)に食い付いて来た事も度々ありました。
 大正七年に妹が生まれ十年には弟正夫が生まれて、我が家は益々家族が増え、親達は子供の養育に必死だったと思います。父は朝飯前に一仕事をするのが常で、三時頃から起きて働いていました。荒地を開墾する事は容易な事ではないのですが、その頃は開墾して種を蒔きさえすれば面白い程作物が穫れたので、幾ら働いても疲労感がなく本当に楽しかったと、父母は語り合っていました。兄二人と姉や私らは、それなりにゆるみない手伝いをさせられました。

掲載省略:写真〜きよのさんの生家と右より牧場主松井延太郎さん、管理人山田さん、父竹内宗吾さん(大正14年9月1日)

 日常の食生活は誠に粗末で、今日の食物と比べると家畜の餌に等しい気がします。真っ黒な麦飯(その頃は麦を自分の手で木の臼で搗[つ]いており、圧偏[あっペん]麦(おしむぎ)は末だなく、麦八〇〜九〇%・米一〇〜二〇%)、稲黍飯[いなきびめし]・蕎麦団子[そばだんご]などで、労働が激しいのでお腹が空き、間食には菜豆の塩煮・煎豆・香煎[こうせん](麦を煎って碾[ひ]き粉にしたもの)・いも・南瓜[かぼちゃ]・とうきびで、収穫の秋は、貧しいながらも農家にとっては最高に楽しい季節でした。
 母が忙しい中にも、子らに食べさせようと裏山に作ってくれる西瓜[すいか]は毎年見事に生[な]りました。早い時には、お盆に仏様にお供えするのに「少し若取りかも知れないが?」と言いながらとった事を記憶しています。西瓜をとりに裏山へ行き持ち帰るのに、両手で持ち切れないので転がしたところ、途中で割れて真っ赤な果肉が地面に散らばった事や、筵[むしろ]を敷いて兄弟が車座[くるまざ]になりバリバリと西瓜を割って、赤だぞ黄色だぞと言って食べる時の光景を思い出すと、懐かしさで胸が切なくなります。
 秋はまた、楽しい事のみではありませんで、父母が折角汗を流して作った作物が熊に荒される事は毎年で、父は常に猟銃を身近に持っており、毎年の様に撃ちとっていた様ですが、中でも特に大きいのを獲った事がありました。私が六、七歳の頃です。小沢から大勢の人で、ロープで引き上げたのを見に行きましたが恐ろしくて、とても近寄る事は出来ませんでした。

掲載省略:写真〜大正11年9月、父竹内宗吉さんが撃った熊の頭がい骨(側面)

 山奥の農家では、女や子供が街に出るのは一年中で三回位でした。六月十五日は札幌神社のお祭りで市街の学校の運動会でもあり、幾らかの小遣銭も貰えるのです。四月に農作業が始まって以来の休日で、この日を楽しみに二カ月余り仕事を続けて来たように思います。
 次は八月一日と二目の上富良野神社の祭典で二日間の休みで、小遣銭も運動会に比べると倍位貰えるし、多少は日頃欲しいと思っている物も自分で買えるので、一年中で最大の楽しみの日でした。三里山奥で暮らしている私達もこの日は、男は着物に下駄、或いはゴム靴、女は殆ど下駄で歩いて、しかも幼児を持つ親は子供を背負って街まで出たものでした。小さい時は馬車に乗せてもらって、ガタゴトと三時間もかかって街に出ました。
 街にはサーカス、曲馬、その他色々な見世物があり、出店がズラリと並んで、欲しい物が沢山あるけれど僅かな小遣いでは何も買えず只見て通るだけ、小遣いを沢山貰って次々と物を買ったり、奇麗な着物を着た人を見ると羨ましく思ったものでした。
 お正月は冬で農作業はないので、休むのはゆっくりした気持ちで休みますけれど、女で街に出る人は少なかったと憶えています。二日の初売りには景品が付くので買物をするのには良いのですが、私達は余り出られませんでした。
 私は十歳でしたが、十勝岳爆発の時は凄い雨降りで連続の雷に地面が揺れる様な感じで、恐ろしくて炉を囲んで姉妹が竦[すく]む様にしていました。祖母が「線香を立てれ」(マジナイ)と言うので、線香を五、六本立てたが雷は一向に止みませんでした。暗くなる頃、下の兄が慌ただしく帰って来て「山津波だ早く逃げろ」と言い捨てて、自分は馬舎から馬を引き出し、これに跨がり高台へ逃げ上がり、私らは祖母・母と裏の山へ逃げました。
 雨は降り続いているので父と上の兄は、馬車の上の大きな板を裏山へ担ぎ上げ、二枚合わせて拝み小屋を造り両側に筵を吊り下げ、私ら子供と祖母が一夜を過ごしました。母は、祖母に風邪を引かせない様に奥の方へ休ませる様にと気を使っていました。御飯は鍋のまま山へ持って上がって食べました。
 明くる朝になって色々な話が伝わって来ました。「喜多さんの娘さんが蓬採[よもぎと]りに行って泥流に流された」「原田さんのお父さんが買物に行って四時頃に帰ったが、その後十五分位で泥流が来たので命拾いであった」「隣の川村さんの弟さんが昨日市街へ出たまま未だ帰らない」などでした。
 爆発後何日かして、父母が前に住んでいた岩内から叔父二人が見舞いに来ました。上富良野は泥流で通れないので美瑛の美沢から山越えをして来たのでした。父母と相談の上、此処は危険だからと一時、祖母を岩内へ連れて行く事になった様です。
 出発の日、祖母を馬車に乗せ私達も一緒に乗り、喜多さんの所まで行き、それから先は泥流で馬車は通れないので、叔父二人が交替で祖母を背負って行くと言って、泥流の中の丸太の上を渡って行くのを私達は見送りました。
 爆発の翌年、今まで鹿の沢の奥にあった日新小学校が流失したので現在の位置に建てられ、道路も改良され、通学距離は四`位になったので私達も通学出来る様になり、私は家の手伝いのため休む事は度々でしたが、小学校の勉強をする事が出来ました。
 その頃から母は、私達女の子に誠に厳しい事を言う様になりました。それは母が今まで、自分自身が遭遇して来た辛苦に耐える心構えや体力を、自分で日頃から養って置く事を教えようと言う考えに外ならぬものと察しています。
 幼い頃の母は、木綿の衣類は身に着けた事がなく、絹物に包まれて育ったとの事でした。それが八歳の三月に父親が急病死した為、母親(祖母)と共にその家から追い出された状態で北海道へ渡ったと言う事です。その時祖母は三十一歳で、岩内に上陸後直ちに母は子守り奉公に出されました。
 岩内・蘭越・倶知安と転々と家を替えての奉公生活は、十六歳で竹内の嫁になるまで約八年間、一日として我家で寝る事は無かったと、その間の様子を次の様に何度となく語っていました。
 何処の家へ行っても食物は粟飯[あわめし]かヒエ飯であった。仕事は子守りをしながら麦・粟・稗[ひえ]を搗[つ]く唐臼[からうす]踏みで、子供を寝かした時は体が軽くて杵[きね]が上がらないので、子供の重さの石を背負って唐臼を踏むのが普通であった。何より辛いと思ったのは食物を制限される事だった。ある家では、自分は体が小さく力が無いので、昔の大鉄びん(鉄の鋳物で出来た湯わかし。十g以上入る)の満杯のを担ごうとしたら重いので、少し反動をつけて担いだら、お湯が少しこぼれて炉の灰がポーンと上がった。途端に側にいたおかみさんが、其処にあったデレッキで私を横殴りにした。私は思わず「キャッ」と声を上げて倒れ気絶した。気がついた時は七十歳を過ぎたその家のお爺さんが抱き起こして介抱して呉れていた。地獄で仏とはこの事かと思った。
 然し親切な家もあり、その家の人は深い仏教信者で魚を食べない習慣なのに「子守りさんは魚が好きだから食べさせる」と言って、わざわざ乗馬で蘭越峠を越えて雷電の浜辺まで行って魚を買って来て「子守りさん、沢山たべなはれ、沢山たべなはれ」と四国弁で、子守りさんと「さん」付けで私を呼んで呉れ大事にして下さった家もあった。
 又、倶知安峠を越えて岩内のオンコの沢へ使いに行く事を言い付かった。倶知安峠は海に面しており、冬期間は天気が急変して猛吹雪となり、知らぬ旅人は吹雪に出合い道を見失い凍死する者が時々出るという事を聞いていたので「今日は今のところは静かだが……」と、帰る頃を気にしながら用事を終え帰途に着いた。
 その頃から空模様が悪くなって来た。早く峠を越えてしまわねばと一生懸命歩くのだが、十a余りの雪道の登り坂は子供の足ではなかなか捗[はかど]らない。天気は益々悪くなって来た。その時、後ろの方から「チャラン、チャラン」と馬の音がして来た。振り向いて見ると駄鞍[だぐら]をつけた馬だ。この馬の後ろを何とかついて行きたいものだと思いながら一生懸命に歩いた。馬は忽[たちま]ち私に追い付き、乗っていたおじさんは馬の上から「あね子どこさ行くんだ?この吹雪になって来たのに……、まごまごしてたら動けなくなって死んでしまうぞ」と怒鳴るような口調で話しかけてくれた。私は「水松の沢まで使いに行って倶知安まで帰るところです」と答えると、おじさんは「おやおやこの吹雪の峠道を童子[わらし]一人で歩けるところか?」と言いながら、ぱっと馬から飛び降りるなり私を捉[つかま]える様に抱いて「ここさ乗れ」と言って私を駄鞍の上へ乗せて、自分は馬の手綱を取って馬の先になってさっさと歩き始めた。
 天気はそれ程も悪くならずに峠を越える事が出来た。吹雪の気遣いの無い所で馬を止め「暗くなって来たから道間違わねで帰れよ」と言って私を馬から抱き下ろし、自分が乗り馬を急がせて去って行った。私は、お礼は言ったものの名前を聞くのを忘れてしまった。これらの事は『今もその人方が生きていなさるならば飛んで行ってお礼を申し上げて死にたい』と、生前幾度となく言っていました。
 母が竹内に嫁いでからも、祖母は物凄く厳格な姑だったらしく、毎日の御飯を炊くのに、その都度升[ます]を前に置いて正座し「幾ら炊きましょうか?」と伺いを立てるのだったと言います。「女は三界に家無しと言って、一旦嫁に行ったらどんなに辛い事があっても努め果たさなければならない。出戻りしようなどと考えても帰る家はないのだ。戻る家が無くなれば夏なら菰[こも]を着て乞食[こじき]をしても生きられ様が、冬になれば凍死するより外にない。身売りする様な事は親戚の顔汚しになるから絶対に許されない。人間身を粉にしても勤める気になれば出来ない事はないのだ。それには常日頃が大切で、毎日毎日それを念頭に置いて身を熟しておけば、その場に応じてそれが成し得るのだ」と、何かにつけて口癖の様に言われたものでした。
 私は昭和七年、十八歳の時、近所だった対馬家の四男正一(平成四年他界)の所へ嫁いで来ました。両親と長男夫婦、その子供(三男二女)、三男夫婦と私達の、四夫婦十三人の家族でした。
 九年、長女が生まれた直後に、手首が腫れて痛みも激しく動かせなくなりました。医者に診察してもらったら関節リューマチと言われ、通院して注射等の手当を受けたが一向に良くならず、あちらの鍼治療、そちらの灸治療と色々の治療を受けてみたが快方に向かいませんでした。姑は理解のある人で、育児を始め家事など、片手で出来ぬ事は色々と手伝ってくれました。それにしても嫁として姑に甘え続ける事は許されません。片手での育児、家事の辛さはとてもとても、小学校の勉強も学ぶ事の出来なかった私には言葉に表わす事も出来ません。
 そうこうして三年位経って徐々に良くなって来ました。その頃には、対馬の家も実家の竹内の家も、農地は十数町歩になっていたと思いますが、昭和六、七年頃きつい冷害凶作の年が続きました。家計の不足を補う為、秋の農作業が終わると男は大方、冬山造材に働きに行きました。男達のいなくなった家庭で女達は、炬燵[こたつ]で夏の作業衣作りをするのでした。一夏着た物の修繕、どんな物でも今日の様に簡単に新品を買う事は出来なかったので、穴のあいた所に端切れを当て、それを又、刺子の様にして繕[つくろ]うのが普通でした。
 その頃、足に履く物は地下足袋が出回って来ていましたが、その四、五年前まで、母達の働き盛りの時は足に履くタビ、ズボン、モモヒキも手作りでした。白い木綿の生地を買って来て、生地二枚を合わせて刺子にして側[がわ]を作り、底は廃物の衣類を何枚も重ねて、それを一針一針さして堅い底にして作業足袋を作るのでした。夏は女も針を持つ暇がないので、冬期間に一夏中の作業用衣類を作り繕って置くのです。最低一人当たり二着分は用意しなければなりません。シャツ、ズボン、袢纏[はんてん]、タビ等、それも二月中に衣類の用意を終わらせねば、三月になると夏の収穫物を入れる俵編みが始まるのです。

掲載省略:写真〜井牧山頂上の通作用おがみ小屋、立っている右側3人の着ている衣服は女性たちの手縫いのもの

 清富地域は皆畑で水田はなかったので、俵は燕麦がらの俵でした。納屋の隅で綿入れの着物を身にまとい、一日中カサコト、カサコト精出して八枚か十枚を編むのです。三月に入ると冬山へ働きに行った人が帰って来て畑仕事の準備(薪切り等)にかかります。
 私達夫婦は昭和十三年に、すぐ近くに掘っ立て小屋を建てて貰って新所帯を持つ事になりました。昭和十六年には大東亜戦争が始まり、身震いする様な気がしました。戦争が激しくなるにつれてだんだんと物が不足になり、十八年頃からは衣類を繕う端切れも買えなくなり、成長盛りの子供を何人も持ち然も新所帯の私共は、家族皆の衣類の繕いに大層苦心しました。
 又、洗濯石鹸がなく、数人の家庭に月に一個の石鹸が配給されても、粘土を固めた様な物で全く泡の出ない、汚れを落とすのに役立つものではありません。又一年間に一足(一軒に)の配給を受けた地下足袋が、街へ出るからと更[さら]の物を履いて家を出たのに、街まで行かない中に底が破れてしまうという事もありました。
 その頃の農耕馬は農家にとって大きな財産でした。それが、徴用といって軍の命令で、買った価格の半分位の値で取り上げられる(然も上富良野から旭川を通り越し鷹栖の練兵所まで六十`以上の道程を曳[ひ]いて来いという事です)。私の家ばかりでは無く何十頭もの馬が列を作り、曳く人は殆どが足に豆を出して鷹栖まで馬を届けに行ったのです。今時の人達には信じられない、想像も出来ない事と思います。
 その上に夫が召集されました。残る私一人が営農
し子供四人を育てなければならないのに、次は農産物の供出があり、自分達の作った食糧も意の値[まま]にする事は出来ませんでした。苦しい中で敗戦となり、夫は無事に復員して釆ましたが、帰らぬ人となった家庭と比べると喜ばなければなりませんし、感謝の気持ちさえ湧いて来ます。
 色々苦難と戦いつつも八十一歳まで生きさせてもらいました。何もかも忘れ去ろうとしている事も、この稿を依頼され、それに応えようと昔の事を一生懸命に思い起こし、一面懐かしい思い出となり、波瀾多き大正・昭和、八十余年の足跡を改めて振り返らせて頂き感無量のものがあります。このような機会に会わせて頂いた事に心から感謝いたします。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子