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第一章 開拓編 女性のくらし

清 富

 清富[きよとみ]の名称の由来は、昭和二二年八月二二日付で尋常小学校設置許可を受けた際に、当時の金子浩村長が「清水沢」と「富良野」の頭二文字を取り、清富尋常小学校と名付けられ、これが現在の地域名の始まりとなった。
 市街地から道々(美沢〜上富良野線)を富良野川本流に沿って日新地区に入り、更に支流の清水沢(ピリカフラヌイ川)を上流にさかのぼると清富地区に入る。一部を国立公園にも接していて約一三二九fの区域面積を持っているが、開拓以来独立した地域を形成するまでには、日新地域の一部になっていた(平成九年四月現在戸数二〇戸、人口七四人)。初期の大地は、日新方面から清水沢沿いに登り、郡界を越えた美瑛側は陸軍の演習地となって行止まりのため、現在の小学校に延びる沢筋(本流の沢、現在は清富開拓の沢川〜本流の沢川沿線)に折れ曲がり、清水沢からこの沢筋が開拓の中心になっていた。
 清富の開拓の夜明けを告げたのは造材であったが、木材を求めた人々がどのような生活をしていたか、また年代も正確に知る事が出来ない。松田林蔵と言う人が入植した時に畑から、造材に使用した大量の金物が出たり、その付近からは瀬戸物が大量に見つかった。その中に明治三七、八年戦役の戦勝記念盃や徳利もあったと言うから四三年頃かと推定されている。
 やがて農場や牧場の時代が来ると、初めて入地者が入ったが開拓は中々進まなかった。明治四三年頃に日新の第一作佐部牧場と同じ経営者が、第二作佐部牧場(詳細不明)の貸し下げを受けて清富で開墾を始めた。この牧場では、造材技術も求めた上に奥地まで入り込み、生活が不便な開拓前線であったために、入地者の出入りも極めて激しく、定住する者はまれであった。その後、大正三年に吉田牧場、五年頃には松井牧場が開かれて、これらの牧場が地域形成の基礎になったとも言える。しかしながら清富地区の実質的な担い手となったのは、昭和六年に吉田・松井両牧場が開放されてから入地して来た人々だった。
 昭和九年に今の清富を一つにして、上清水農事実行組合が生まれ、また行政区画として独立したのが、昭和一五年と言われるなどまちまちであるが、昭和二二年には地域戸数増加に対応して、柳之沢(清富一)、本流の沢(清富二)、上清水沢(清富三)の三つの組合に分割された。
 最も奥になる開拓地は、昭和年代に入ってから開かれたが、一番苦心したのは道路だった。湿地が多くて全域がぬかり、また奥地ほど深刻で雑穀を出すのに本道路まで二回に分けて中出しをした。祭りの余興をやめても道路工事を中止した事はなかった程、人々にとって厳しい作業の現実であった。そんな中での畑作と言えば、ビート耕作は昭和七、八年頃から多くなり、一四、五年に大納言(小豆)が五俵から六俵取れたのと、除虫菊の全盛時代が景気の絶頂だった。そして馬鈴薯が主作物として占めるようになったのは戦後、種子用を作るようになってからである。
 市街地では電化が進んでいたが、郡部農村地に至るまでには長い時間が必要であり、この為に清富では自力で果たそうと、発起者竹内正夫(清富一在住)等一〇人で、昭和二四年に共同自家発電の計画が出された。発電工事には多額の自己負担金を必要とする為、二四全戸の同意を得て、翌二五年五月三一日点灯された。
 時代の移り変りと共に、農業環境の悪化で離農が進み、四地域に分かれていた農事組合も現在では農事組合、住民会とも一つになった。平成六年一月二九日には、清富小学校開校六〇周年記念と新校舎落成式が盛大に行われた。清水沢と言う美しい名のもとで、さまざまな苦難を乗り越えて生きて来た先達者、その魂を受け継ぎ、そして語りつづけて行く清富の人々、そんな愛郷心あふれる地域である。

かみふらの 女性史  平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長  倉本 千代子