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かみふらの町について
「かみふらの」。美しい自然に恵まれた大地、十勝岳連峰のふもとに、人々と自然がおりなす素敵な営みの舞台が広がっている。開拓以来幾多の試練をのりこえて築き、育み、護って来たこの母なる大地、今、先人の開拓精神をたたえ新しいさわやかな風にのって一〇〇年の鼓動が聞こえて来る。
かみふらの町の開基は遠く明治三〇年四月一二日、三重団体移住先遣隊田中常次郎を始めとする一行八人がこの地に入り、残雪の原野に立つ楡[にれ]の木のもとで仮寝の一夜を明かした時から、私達の町の歴史が始まった。(行政的な開基は明治三〇年七月一日の富良野村創設にある)
北海道開拓に夢をかけた入植者たちの絶え間なく続いた開墾の日々、開拓は木を切り倒す事から始め、鋸[のこぎり]や斧[おの]を使い、岩や石を取りのぞき、荒れ地を掘り起こすのも一鍬[ひとくわ]一鍬が人力であり、まさに困苦欠乏に耐えて開墾することの困難と戦いながらの毎日だった。
次第に入植が進み、明治三二年二月鉄道(富良野線)の開通により動脈が形成されると、入植者たちの生活基盤を整えるために、駅周辺に商工業の集落が出来、まちの経済も発展しはじめた。それに伴い道路の整備が進み、子供たちの教育充実の為に各地域に学校が整えられて行くと、色々な行事等で大人達が集う唯一の場所にもなり、日常生活や身近なところに変化が出て来た。
そして明治三六年に上富良野と下富良野(現富良野市、南富良野町)に分割、さらに上富良野が大正六年に中富良野(現中富良野町)を分割し、この時点で現在の上富良野町域が確定した。
しかし、開拓の鍬を入れて三〇年、農民がひと息ついた時に思いもしなかった大災害が起きた。大正一五年十勝岳が大噴火を起こし、山麓の残雪が時速六〇`の泥流となり、僅か二五分で市街地まで流下した。当時の記録によると死者一四四人、流出した家屋は一六三戸を数え、身を賭して開拓した村も美田も泥土と流木に埋めつくされ、天災の前にはひとたまりもなく惨害の状と化した。
復興か放棄かの選択を迫られた時「三〇年間、人々が流した汗と涙の刻まれているこの土地を見捨てる事は出来ない。石にかじりついてもこの泥田を美田にしたい」。当時の吉田村長の決意であった。強い決意に頷[うなず]いた村民も二度の開拓に黙々と立ち向い、不可能を可能にしたのだった。その努力と不屈の開拓者精神は今も脈々と受け継がれている。
戦後の復興期を経て、昭和二六年町政が施行された。二九年に上富良野演習場が設置され、翌三〇年には陸上自衛隊が駐屯するなど、純農村としての町の形態が大きく変貌を始めた。農村部の人口減少や市街地への人口集中という現象が顕在化しはじめ、六〇年代に入ると若年者の町外流出、後継者不足、離農転出等の深刻な局面を迎え、人口の減少は商工業においても直接的な影響をもたらすようになった。この頃から町の活性化に向けて新たな産業バランスの構築が図られ、ラベンダーの観光資源化や十勝岳温泉再開発など、町の大切な財産である無限に等しい広大な自然との調和を図りつつ、民間事業や観光施設等の刷新が進められて来た。またイベントの数々も繰り広げられており、文化やスポーツの町としても活気にあふれている。
国際化時代に先がけて、昭和六〇年(一九八五)九月五日、歴史的な調印が交わされ、カナダ国アルバータ州カムロース市と友好提携を結び、未来をつなぐ国際交流の扉が開かれた。海をこえた交流も一〇年を経て友好の輪はますます深まっている。
今、輝かしい開基百年の時を迎え、開拓の先駆者である田中常次郎の出身地、三重県津市と我が町の友好都市提携調印式が平成九年七月三〇日行われ、二世紀への新たな一ページに友好の絆が記された。
心澄む郷[さと]「かみふらの」緑のパッチワークが大地を彩る春、丘いちめんを紫に染めるラベンダーの夏、そして十勝岳連峰から鮮やかな秋が舞いおりて来ると、やがて冬の使者も届き白一色のステージへと動いて行く。四季を通して折々の表情を変えながら、訪れる沢山の人たちを優しくつつみ込む大自然の楽園に誘われる観光拠点として、今、熱い視線をあびている「かみふらの町」である。
かみふらの 女性史 平成10(1998)年3月1日発行
編集兼発行者 かみふらの「女性史をつくる会」 会長 倉本 千代子