有線放送
文化は電気の光から、文化は心の泉という言葉がある。その電化を通じて、各戸に小型スピーカー、本機は部落会長宅に置き、連絡、また娯楽番組を通じて心の憩を求めようとして、戦時下ではあったが東中七部落の床鍋正則氏(元町議会議長)が有線放送に取組んだ。指導を受けた内原訓練所での体験にヒントを得て、全戸に小型スピーカーを備えて、その連絡通信網を設置したのは昭和十八年秋のことであった。
わが町における有線放送のさきがけとして各方面の注目のまととなり、その後、東中全域はもとより町内各地においても順次普及されたのである。その後、機械整備、また配線が、交通上支障になるなどの面もあり、次第に有線放送はその維持経営が困難さを増してきて、廃止することも多くなって今日に至っているのが現状である。有線放送施設が出来上った時は部落こぞってこの完成を喜び、夜に親機のおいてある会長宅に集まって、会長挨拶のあと、同好者によるのど自慢大会を開いて声の親睦交流をはかった。楽しい農村文化のあけぼのであったことを、今も昔の思い出となつかしく想い出している。
また、東京大相撲の放送や、文芸浪曲報送の時間のときなど、田畑の仕事を早めに切り上げて聞いて楽しむ者もあったと言われている。この有線放送を活用したプログラム番組も出来て、当時開設された農業改良相談所の普及指導員の方を招いて講話をお願いしたり、選挙などの時には立候補者の応援弁士の演説報送などをきいて心を奮いたたせたこともあった。有線報送は戦時中物資の欠乏時代に、ラジオ聴取を目的として、後志の喜茂別において始められ、その後上富良野、美瑛と全道各地に普及されたのである。
先にも紹介した通り、東中の床鍋正則氏が茨城県内原の日本農民高等国民学校の目輪兵舎にヒントを得て、町内の蝶野ラジオ店がこれに協力し技術的な面を解決する予備期間を入れると、わが町上富良野こそ全道第一の発祥地と言われていることは誇りとしてうれしい限りである。
その後昭和三十四年共同聴取施設も、社団法人有線放送文化協会として全町的になり、単にラジオがきけるという初期の時代からマイクによって連絡のとれる時代に進んだのである。これが更に返信の求めることの出来る装置が考察され、ついにはいよいよ農村集合電話としての利用が可能になったことは、農村文化の向上発展に大きく寄付をした。
その間幾多の変遷を経ているが、施設は昭和二十五年に役場内へ移し、翌年は公民館に移されている、その後、この配線は順次一般電話回線へ切り替えられ、上富良野町史(第一巻)によると有線放送協会が社団法人として設立されて以来、酒匂佑一が常任理事(初代)、その後久保義儀(昭和三十七年)と変り、事務局長は昭和三十四年八月一日平家武、三十四年十二月一日上田美一、三十六年九月一日平井進と変って、それぞれに就任されている。
(上村重雄記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉