郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

清富部落の水力発電
―山間の部落に眩しい電灯―

終戦直後は食料を始め、物資が甚だ不足して皆が苦労した。
灯油も入手出来ず、農家の人は軍需作物として作られていた亜麻種を搾油してもらって、トウシミで灯火を用立てて居る家が多数あった。又、町工場においても電力が足りないので、米麦の搗精、加工が出来なくなっていた。
そこで沢地に住む人達は、昔の水車を作り小川の水力を利用して、ギーコトン、ギーコトンと自分の家で米麦の搗精をする様になり、又これにもう一つ考えを加え、廃車の発電機を入手、水車に木製のプーリーを着け、点灯する家も出来て来た。
それは、水車もプーリーも手造りが主だったため車の中心や、重さのバランスが正確に出来て居ないため点灯しても、ポカリ、ポカリ螢のあかり様なのが多かった。
そこでこの水利をより良い場所で多くの人が利用するようにしようと農事組合の集会で時々話題になったが、いざ具体的な場面に入ると、資金は勿論のこと、設置場所、或は設備の規模等意見は様々で纏まりがつかなかった。
その頃、道では電力不足を補うため中小水力発電の奨励をする様になったらしく、中小発電の工事業者を新聞で広告して居るのを見たので、早速業者に手紙を送った。業者側では、一度現場を見て説明したいと言う事で四、五日したらやって来た。前々から自分で考えて居た所を見せた処、「此処なら絶対成功出来るから即設計に入りましょう」と、業者は積極的で、こちらは素人で何も解らないし先立つものは資金であった。突込んだ内容を聞くと、私等の目指している場所に設置すると、概略だが水量は八戸位、落差は十六尺位、出力は約十馬力で電力量は七、五KWA位、工事費は今迄に出来た処を見ると一戸当り十万円位だと言う。
電気をつけたい気持ちは山々だが、十万の金となると尻込みをする様だ。二万か三万ならの胸算用の人が多かった中で、話は一時ストップした。
私は此の事業は今乗りかけている、水車等を取入れて実施するとすれば百万以上の投資になるのだから経済的に今後を考えたならば絶対農産物の加工と併せるべきだと考えた。
然し、おおかたの人たちは電気さえ付けば良いと、其の後の運営の事等は全然考えの中には無かった様だ。
そこで、私は電気は夜だけで良いのだから昼間の動力を私個人が使うこととし、動力設備に要する費用の半分を私が負担することを提案した。これで話しはスムーズに受入れられた。
それでも配管線路延長が十粁にもなるため此処で又一頓挫した、私始めみんなが素人で、どんなことをしてでも、何んな電線でも繋げば電気はつくと思って居て、電気工作規定があったり配電線の途中の電気のロス等何も知らない素人ばかりなのだ。
兎に角もっと詳しい事を知らければならないと言うことで先ず設計をしてもらうことにした。
測量士が来て測量し、十日位で設計書も出来て来て見積金額も分かった。何もかも出来る事は皆自力で実行する心算でいたが、電気工事は規定に基づいた工事をせねばならないし、電線に使うべき太さがあり、その見積額は八十万円位にもなる。地元の業者も聞いて見たが似たもので電気工事は是非地元業者でやらして欲しいと言う。電線の見積単価は地元も札幌もトン当り二十万円を越えている。
私は終戦前から日経新聞をとって居る、これで見る電線の東京市場の相場はトン当り十万円強なのである、そこで私は以前勤めて居た会社の同僚に頼んで東京では幾らで買えるか調べて見ることにし次の様な電報を同僚宛に発信した。
デ ンセン、四ミリ、五ミリ、二・六ミリ。アワセテ三・五トン。オンチデ イクラデ カイツケデ キルヤ。ヘンコウ。カミフラノタケウチ
翌日早速返電がありました。
デ ミ。デ ンセン ハダ カ。三・五トン。
トン一一マンデ カエル。イ
と返電があり、私はこの電報を見ながら目頭が熱くなった。
そして、ああこれでやることに決まったと思った。
友人の有難さを強く感じたのと併せて、北海道価格と東京価格の大きな開きに驚くと共に、北海道の吾々はしっかりしなければならないと思った。
翌日皆さんに報告すると皆大喜びで、今迄闇の石油を買った方が利口だとか、自分の今の水車に少し金を掛けた方が良いとか、反対めいた意見の人も一斉に前向きとなり、話はとんとんと進み出し工事に着手することが出来、十二月の内に詳細な設計図の出来ぬ中で、水路工事の荒掘りや、電柱材、水槽、等の原材料集めをする事が出来た。
昭和二十五年になり、二月に北海水力電業社と工事本設計、水車、発電機の契約をし、三月には町内荻野電気商会と配線工事の契約をし、雪の溶けるのを待って出来る処から工事を進めた。
五月二十五日、点灯式を行うことを目標に一心に工事に精出した。
春種蒔き時期を控えてのことだけに、一日も一時間も余裕の時間は無かった。水車、発電機の着荷が遅れ、到着後は二晩徹夜の取付けをし漸く二十五日に間に合った。
点灯式には部落内の未加入の方々にも御案内をしたところ、皆心持ち良く祝い酒をぶら下げて祝賀会に参加して下さった、田中町長さん、石川農協組合長さん始め町内商店の方々も大勢来て下さって大変な賑わいで、眩しいと言われた電灯の下で夜の夜中迄喜び続けた。
電気の需要は三キロワット余りで、七・五キロの出力の半分位だったので、電庄を一〇五ボルトで送ったことから皆さん眩しい眩しいと言うので、余る電気で三個所程街路灯もつけた。町の人方はこれは勿体ないと言って呉れた。
北電がローソク送電をして居た時なので殊更この様な感じがあったものと思う。
二十八人が「よしやろう」と立ち上る様になった最大の動機は電線「トン十一万円で買える」という電報であったと思う。
この返電に依り東京で電線を買ってもらうべくその資金を借り度く農協へ出向いたら、農協では同じ価格にするから農協から買えと言って金は貸して呉れなかった、金無しでは東京から買うことは出来ないので致し方なく農協の言うことに従った。後日電線代金の精算の時になってトン当り十三万五千円より安くは出来ないという。その場迄来てしまったら如何とも出来なく、農協に嵌められたことを強く意識した。
組合加入者  二十八人
発電工事費  八十六万円(補助金四十万円)
配電工事費  七十九万円
労力奉仕   延べ五百人
差引平均して一戸当り約三十八万円
振返って見て、自分達の事乍ら良くやったなーと感歎の意を新たにする。
北の発電所は、昭和二十五年五月二十五日から十一年間昭和三十六年十二月北電の電気が導入される迄、特別機械の保守、水路保守修繕の時以外一日二十四時間水車は廻り続けた。
(竹内正夫記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉