割烹(料理屋)
料理屋は明治三十二年に鈴木金次郎・後藤某が開業したのが始まりで、明治三十九年上富良野村が芸妓公許の地となってからは、常に弦歌が絶えず商業繁栄の地ともなり、割烹店も増加し明治年代には更に尾崎政吉・森伝吉・田村熊太郎・大塚政吉が開業した。大正三年から七年における第一次世界大戦の影響による故か豆類、特にえんどうが高騰して上富良野村は豆の道内の出荷代表として名を挙げた。
えんどう成金に湧き立ち、割烹店は昼夜を通してのドンチャン騒ぎ、中には二晩三晩を通し「呑み明し、出荷に連れて来た馬は店先のつなぎ杭につながれたまま空腹に耐えかねて手綱を引きちぎったり、つなぎ杭を引き抜いたまま、我家に逃げ帰った話しもしばしばあったとのこと。こうした話しも大正十年頃からの豆景気の終りと同時に消えていった。
大正初期にあった割烹店は駅前、中通りに二階建の立派な店が多く当時の割烹店は土田養助(のんきや)・田村徳市・伊藤勝次・森ヒデ・さぬきや高橋・杉野・須藤・北川・葛山等であった。
しかし、昭和初期に戦時色が濃くなってくると、次々と閉店をしていった。
補 説
豆類特にえんどうが高騰したのは、戦場となったヨーロッパ地区の食糧品、特にコーヒーの原料に供されたためであったと聞いている。
(高橋寅吉記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉