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ハイヤー

昭和の初期から特定区間で乗合自動車が運行されていたが、本格的にハイヤーが運行されたのは、昭和二十九年美瑛ハイヤー上富良野営業所として、田中勝次郎が営業を開始、その後昭和三十二年には有限会社十勝岳ハイヤーとし、又昭和三十年四月には、株式会社上富良野ハイヤーが営業を開始した。
初乗り運賃の移り変りをみると
昭和三十年代 2km  まで百円    1km増す毎に   五十円
昭和四十一年 1km  まで百円    340m増す毎に  二十円
昭和四十七年 1km  まで百二十円     増額同
昭和五十四年 1.4km  まで三百十円  408m増す毎に  六十円
昭和五十九年  同  まで三百八十円 増額同     七十円
平成元年    同  まで三百九十円 増額同
平成三年    同  まで四百三十円 380m増す毎に  八十円
平成五年    同  まで四百八十円 増額同     九十円
平成九年    同  まで五百三十円 増額同     八十円
十勝岳ハイヤー
十勝岳ハイヤーは、昭和二十九年十二月美瑛ハイヤー上富良野営業所として、田中勝次郎が中型二台、小型一台の計三台で営業を開始した。昭和三十一年に資本金二百五十万円で、代表取締役田中勝次郎、取締役田中 徹、田中 務、監査田中 春の四人で会社を設立し、同年十二月免許を申請、昭和三十二年五月免許が認可になり、有限会社十勝岳ハイヤーとして営業を開始した。昭和四十年田中勝次郎の死去により代表取締役に田中 徹が就任したが、昭和四十一年十一月東中で農業を営む尾岸三吉に譲渡され、役員も代表取締役尾岸三吉、取締役尾岸孝雄、藤原 均、監査役田中 徹、田中 春の五人となった。昭和五十三年五月には尾岸孝雄が代表取締役となったが、平成八年十二月上富良野町長に当選のため辞任し、宮下吉勝が就任した。
営業車も当初の三台から順次増車し、昭和五十年から八台となっている。昭和六十年には観光客が増加し、グループ利用が増えたことから、富良野沿線では初めての、九人乗りのジャンボハイヤーを導入した。
上富良野ハイヤー
上富良野ハイヤーは、当時一色石炭に勤務していた藤田茂次が、ハイヤー会社の設立を思い立ち、昭和二十八年十一月三日設立発起人会を開いた。メンバーは他に藤田健治、水上甚松、佐藤桝右ヱ門、守田周一、白井弥八、白井東北の計七人であった。その後数回の発起人会を開き、会社を設立することに決定し、札幌陸運局に免許の申請をしていたが、昭和二十九年十一月十一日付で、「道路運送法第七条第一項の規定による運輸開始は免許の日から四ケ月以内」として免許状が交付された。
これを受けて設立総会を開き、代表取締役に佐藤敬太郎、取締役に藤田太十郎、渋江北海、白井弥八、守田周一、佐藤桝右ヱ門、白井東北、水上甚松を選出し、昭和二十九年十二月六日設立登記をした。
営業は昭和三十年四月一日として、旭川合同ハイヤーより営業車二台を購入し、営業所を上富良野市街地一四三二番地(現在の山一農産裏)で開始した。その後昭和三十二年に当時の酪農組合集乳所跡地(現在地)を買収し、昭和三十三年九月に営業所を移した。昭和四十八年に佐藤敬太郎が代表取締役を辞任し、藤田茂次が就任、他の役員も取締役藤田健治、白井 清、監査役藤田貞子となった。昭和五十五年一月白井 清が辞任し、藤田 茂が取締役に就任している。
許可時の運賃をみると、初乗りが三粁まで百円、一粁増す毎に五〇円増、貸運賃は一時間毎に四百七十円(十五粁以内)一日貸運賃二千八百円となっている。
二社類似期の営業開始であるが、当時は自衛隊駐とん地建設工事関係者が多く、飲食店なども増え非常に活気があり、営業も多忙だったようである。
(西口 登記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉