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飛澤自動車部

飛澤病院は、飛澤清治氏(飛澤尚武氏の父)が大正二年に開業された。
飛澤清治先生は、秋田県出身で慈恵医大を卒業、旭川向井病院(旭川厚生病院の前身)に勤務中の大正二年、村内有志の招請により五町内(現在の中町二丁目)に飛澤病院を開業した。
大正四年、六町内(現在地で中町二丁目)にあった島田病院を買収し、その病院のあとに移って診療にあたった。
その当時、結核が流行していたため、清治先生は村民に栄養をと考え村に初めて乳牛を導入し、酪農事業を奨励した。
又、生活改善を指導する一方、貧しい人には無料で診療するなど「赤ひげ」を地で行った先生でした。
急患があれば、深夜であれ、猛吹雪の中でも、心よく応診にどんな遠方でも馬に乗って行かれた。
清治先生は体重約三十貫(一一二s)、身長五尺五寸五分(一六八p)と大きな体のため、応診用の馬を飼育し何頭も乗り替えたという。一度だけだが、応診に向う途中で馬が潰れた事があった。
飛澤病院での診療を行いながら、十勝岳吹上温泉の経営に乗り出したり、私費も投じて温泉への道路を整備をしたり、そこに山岳鉄道を敷設する計画も描いたが、これは満州事変の勃発で実現しなかった。
その他、昭和初期にはゴルフ場建設プランを練るなど、一歩進んだ人物であった。
大正十二年、吹上温泉を札幌の中川三郎氏より三〇円で買取り、村から温泉に続く道を整備し、温泉施設も充実させ、温泉は駅逓の役割も果していた。
その様な状況で、清治先生は応診用と吹上温泉へお客さんを運ぶ目的で乗用車を購入する決意をされた。
昭和四年、米国のフォード車が一台納車された。
第一号の乗客は「西本願寺法主大谷光明猊下」(九條武子の兄)であった。
それは、昭和四年七月九日で、九條武子の歌碑建立の除幕式に出席するための来村であった。
昭和五年に同じフォード車を入れ、応診、吹上温泉来客用にと使用した。昭和五年に納車した車の試運転に層雲峡まで行った写真がある。その写真には、飛澤清治先生、飛澤辰巳氏、飛澤カネさん(尚武氏の母)、飛澤ヤエさん(尚武氏の姉、後に小田嶋家に嫁ぐ)が写っておられる。
昭和八年にはバスを購入し、上富良野駅前から吹上温泉間の営業を行った。
昭和十一年頃の街並み図(郷土をさぐる会佐藤輝雄氏作図)に、駅前の「飛澤自動車部」と飛澤病院前に「二棟の車庫」(一棟がバス用)が記されている。
千葉誠氏(中町在住)のお話しによると、当時役場に勤務し、自宅の旭野山加から通勤していたが、年に何回か乗った事があったという。
後部座席の前に補助席用の板があって、定員外に乗せる様になっていた記憶があるという。
又、フォード車の走った後に、子供達がガソリン独特の匂いを喚ぐように、車の後を追っていたと、千葉誠氏は語っている。
(中村有秀記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉