馬
北海道の開拓は馬の活躍をなくしては語ることができない。従って馬の需要度は高く、日本独特の小型で健康な気の荒い性質をもった「道産馬」はその飼育と使役には苦労したらしい。しかし、古来より受け継がれたこの気の荒さと健康が、北海道開拓をなし遂げたと言える。
当地の馬の導入は、はじめ、主として十勝地方(十勝・大楽毛)から買い入れたもので、輸送はバラ追い(数頭の馬を馬夫二、三人で数日をかけて運んで来た)、または、連結法(先頭から順々にロープで尾と首を連結し一列にして引いて来た)により、四〜五日がかりで野宿、あるいは馬宿に泊まりながら引いて来たが、道中逃げ出す馬があり苦労したという。
これらの馬は、農場附与、造材搬出用に使役され、去勢されていない牡馬で「たまつき」と言う気の荒い馬であった。明治三十三、四年頃、松原勝蔵らが日高、十勝地方より移入し、育成の途を拓いた。
大正中期頃には軽快なサラブレット系、トロッター系、ハクニー系等が移入され、村の祭典等には競馬が行われ人気を呼んだ。また、大正の後期から輓馬競走が盛んに行われた。
昭和時代に入り道路の整備と耕地の開発によって大量の運搬が行われるようになり、馬体の大きな力量のある馬が移入され、ペルシュロン系の馬が重視された。次いでノルマン系が移入され、ペルシュロンとノルマンの交配による混血種、いわゆる小型輓馬が産出されるようになった。
馬の価格については、大正六、七年頃、一時的に暴騰したが、昭和四、五年頃には冷害凶作が続き下落した。八月に行われる馬市では、二歳馬が十円〜二十円であった。昭和十二年、支那事変の勃発により軍需が高まったので急激に高騰し、昭和十五年ころには一時千円になったが、公定価格が設定されて安定した。昭和十五〜十八年頃、軍馬の購買が盛になり、富良野・美瑛・中富良野等の馬も上富良野家畜市場に集められて購買が行われた。特に十八年七月の大量購買には軍用保護馬の全頭が購買されて戦場へ送られた。
最高で一、八〇〇頭を数えた飼育馬は、平成七年二十頭を数えるのみで、農業が機械化されることによって減少した。
(三原康敬記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉