缶詰工場
昭和三十五年上富良野町は農業振興計画の策定にあたり、道内・道外を視察していた。山形県を視察した議員団は桃・桜桃が加工用としても有利に取引きされている事と、上富良野にも生育している事を確めた。
当時高所得安定作物となりつつあったアスパラガスに桃、桜桃、それに養豚、養鶏を取入れた、一戸平均一〇〇万円農業を実現すべく、工場誘致の動きがおこった。美瑛・上富良野、中富良野・富良野・山部・東山・南富良野にアスパラガスの契約栽培を行い、昭和三十三年より富良野に工場を建設し操業を始めていたデイジー食品工業鰍ヨも当然打診したものと思われるが、昭和三十六年、美瑛工場建設が決定していたため、デイジーの誘致は断念した。
山形県では桃・桜桃・なめこ缶詰を生産しており、昭和三十二年、根室・釧路・標津・岩内の中小缶詰会社を企業合同し、日本合同缶詰鰍ニなり、道内一の生産量、売上高となっていた。社長の碓水勝三郎氏に打診したところ、水産から農業への時代であると、町の要請に応えて上富良野への進出を決めたと言う。
ワンマン社長であった。誘致側は工業用水の調査もしておらず、上富良野の歴史、風土についてもくわしく伝えられておらず、とにかく良いことずくめの説明であったと聞いている。アスパラガスはデイジー食品鰍ェ契約栽培しているので、桃・桜桃・スイートコーンを主体としアスパラガスは「出来ればやる」との計画がたてられた。
昭和三十五年秋には北海製缶葛Z術顧問阿部三郎氏が桃・桜桃の栽培指導に来町し、日の出二下、岡田竹松氏圃場にて現地講習会を行った。これらの普及には、町、両農協、普及所が協力した。工場用地は日の出二下、横山政市氏畑一町五反歩を決定した。
晩秋には桃・桜桃の栽培希望者分の苗木を山形より取寄せ、森林組合苗圃に仮伏した。昭和三十五年冬十二月にはアスパラガス・スイートコーンの栽培希望者の取りまとめと督励を行った。
昭和三十六年、町は農業振興計画を実行すべく農業経営者、後継者の中から有望な人材を選び出して農業推進実践委員とし、自衛隊駐屯地にて一週間の宿泊農業研修を行った。講師は大学教授、農業試験場、農業経営者等多彩であった。
一方デイジー食品鰍ヘアスパラガスの既得権を主張し、昭和三十六年美瑛工場の建設を三十七年に延期し、日の出六・三浦保三氏の水田を買収し三十六年建設を決定した。二社で競わせた方が原料価格が高くなる等、加工企業を全く理解しない、無知とずるさをさらけ出した。結局調整がつかず二工場建設に落ち着いた。
アスパラガスについては昭和三十六年以前の面積についてはデイジー食品鰍フ既得権を認め、以降両社で増反したものについては両工場へ配分となった。
スイートコーンについては地区分けし必要面積を作付けする事とした。桃・桜桃は日本合同缶詰鰍フ権利とした。
昭和三十六年三月、日本合同缶詰根室本社より初代事業所長小泉正保氏が着任し、上富ボーリング工業佐藤保氏宅二階に仮事務所を置き、上富良野の実態調査と工場建設準備に着手した。桃・桜桃は定植され、スイートコーンの播種も順調に進められた。
工場敷地の登記も終え、住宅兼事務所は高橋建設、水源のボーリング・井戸掘りは上富ボーリング、ボイラー工事は小波工務店と決定、新工場設計施工は東海工業となった矢先、町より小学校の建て換え工事を行うので校舎を解体して仮工場にしてはどうかと本社に持込んだ。上富良野の実態がわかりかけて来た本社はこの案を受け入れた。六月には住宅兼事務所が新築され工場の工事に着手した。
日本ヒューム管工業が工事を担当し解体と組立が併行して行われ二階建の工場が出来上った。一階は工場、二階を空缶倉庫とした。七月に入り工場は完成し、機械の搬入すえ付が始まった。試運転出来るのは八月二十日頃の予定である。
春より好天に恵まれ、桃・桜桃の活着もよく順調な生育を示した。スイートコーンの生育は促進され、八月五日には適熟期に入る品種が出始めた。製造機械の工事は昼夜を通して行われたが、早くて盆明け完成との事である。道内の市場へ叺に入れて送り込んだがデイジー食品も同じことを行っており、タダ同然である。根室本社の冷蔵庫へ毎日送り冷凍を試みたが途中でムレてしまい売れる商品とはならなかった。原料の集荷は東中農協・西村運輸・市場と根室へは日本通運が行った。
八月末になり操業に入ったが四号缶二ダース入りクリームスタイル九、〇〇〇ケースを製造し、過熟となった畑には収穫せずに反当二万五千円を支払い製造を中止した。スイートコーンの恐さを知らされた。繁忙中の職員、工員の昼食、夕食は向いの伊藤勝次氏の旧宅を借りて炊出しを行った。根室の鮭・鱒・カニ・サンマ・山形の桃の缶詰の生産が順調に伸び、幹部社員の冬のボーナス七カ月分が小切手で支給されていた。
昭和三十七年春、桃・桜桃のほとんどが凍害により枯死した。冬の温度を計算しない大ミス、アスパラガスは三十町新植された。スイートコーンは品種が悪く売行きの悪かった前年の半分の作付けとした。
根室より中古倉庫を解体移設し製品倉庫とし、その横に食堂を併設した。活路を見い出すべくアスパラガス缶詰の生産に着手する事に決定する。山部東洋木材福利厚生用栽培畑三町歩より原料十五トン、デイジー食品より試験操業分として五十トンの供給を受ける事となる。山部町に試験圃として五町歩の畑を求めアスパラガス、桜桃を定植した。アスパラガス缶詰の内販、輸出共好調で工場は黒字操業でき、生産者も安定し収穫終了後に行う一泊二日の慰安旅行は盛大なものであった。
桃・桜桃は日本合同缶詰も断念したし、話題にも上がらなくなって立消えた。アスパラガスの面積は三十九年には百町歩となり生産量二百トン強、日本合同缶詰は四十パーセント、デイジー食品六十パーセントの配分としたが四十二年より折半となる。スイートコーンも品質重点の計画生産を行い順調に推移した。
冬期間は根室・標津・大樹よりじゅんさい原料を仕入れ、ビン詰を行った。昭和三十八年、労働力確保のため工場二階の一部を宿舎とし女子工員十二名前後が住み込みで働いた。又子供の小さい女子工員のために託児所を開設する。昭和三十七年以降は黒字決算が出来た。
この頃から根室・釧路の水産関係は漁獲の減少、二百カイリ、東南アジアのサバ缶不買運動のあおりを受け、経営は苦しいものとなった。企業合同からの脱退が相次ぎ黒字工場の大手企業への売却が始まった。上富良野工場は昭和四十九年スイートコーン増産のため設備増強し増産体制に入る。昭和五十年春、土地・建物・機械に底当権が設定され、秋には代物弁済のため所有権は東食北海製缶に移された。昭和五十一年九月二十六日、本社は三十八億円の負債を抱え倒産した。スイートコーン操業終了予定四日前のことである。原料は美幌クレードル食品が引取り、従業員の男子は富良野合理化澱粉工場へ、女子はデイジー食品上富良野工場で働かせて頂いた。ご好意には今も感謝している。
昭和五十二年三月、釧路地裁により更生会社の認可があり管財人は東食より田中永俊氏が着任、原料代金未払、労賃未払が全額支払われた。昭和五十三年十二月、東食は上富良野工場を厚生会社より分離し別会社設立を試みるが他債権者の反発にあい断念、本社を含め会社厚生から清算を発表した。
上富良野農協は生産者擁護の立場から東食より工場を買収し、上富良野農協食品工場として事業を継続するホクレン・ほくさんと技術提携し、アスパラガス缶詰・スイートコーン缶詰・レッドピース缶詰・ゆであずき缶詰・グリーンアスパラ冷凍・かき百合冷凍等を行った。
スイートコーン缶詰は円高により輸入増が続き平成三年より全部レトルト軸付スイートコーンに変り、アスパラガス缶詰は中国産の安い輸入品に対抗出来ず、平成六年度より生産をとりやめた。ゆであずき缶詰は、ホクレン十勝工場新設によりホクレンからの発注はゼロとなって現在に至っている。
昭和六十一年十二月、デイジー食品上富良野工場は富良野本社工場新築時に統合された。
(藤田和大記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉