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澱粉工場

澱粉工場の変遷
上富良野における澱粉工場の歴史は古く、明治三十五年に東中の田畑浅吉の創業が、上富良野における澱粉工場の始まりと言われている。
また富良野地方誌によると、明治四十四年、カネキチ農場が江幌二十七号にて、澱粉工場と精米所を開設操業したと記されている。
その後大正年代に入り東中の尾岸喜右衛門が札幌の親戚の勧めで、札幌から機械を購入し、種子薯の増産に二年を費し東十線北十九号で開業、十五ケ年耕作と製造をした。しかし連作によって収量が少なくなった上、大面積耕作者がなく、買入が出来なかったので廃業した。耕作面積二十五町歩、当時澱粉一袋五円〜七円、十五年間の経営中で売上高一万円のことが二年あったと言われている。
その後明治末期から大正時代、昭和の初期にかけ江花、江幌、日新、里仁、日の出、旭野、東中等において十数工場が操業したが、原料馬鈴薯の生産は労力がかかると言うことで農家がよろこばず、原料の確保に苦慮した様である。
第二次世界大戦の拡大で、馬鈴薯を主食用として国策で増産が進められ、これに伴い澱粉工場も多く建設された。戦後には栽培技術の向上と機械化が進み、耕作面積、収量とも飛躍的に伸び、最盛期には上富良野で二十を超える工場が操業していた。
しかし馬鈴薯が従来の原料主体から反当収入のよい生食用に変り、これに伴い種子馬鈴薯の耕作が盛んになっていった。また工場の近代化も進み、加工能力の増大による原料馬鈴薯の不足から逐次廃業し、昭和四十年富良野に沿線農協が合理化澱粉工場を建設した時、上富良野では七工場になっていた。このうち日新の白井東北、東中の実広清一の二工場が操業をつづけ他は廃業、ただし合理化澱粉工場の原料消化能力の都合で実際には農協澱粉工場も操業していた。
操業を継続した三工場も、昭和四十五年までに廃業、その後上富良野で生産された原料馬鈴薯は主として富良野沿線農協合理化澱粉工場に出荷されていたが、この工場も平成七年末で閉鎖され、平成八年産からは上川郡剣淵町の上川北部農協合理化澱粉工場に出荷することになった。
元町長和田松ヱ門さんが、若い頃詠んだ詩の一部を記してみる。
朝の澱粉工場(昭和三年九月二九日)
蒼空の下、透徹した大気の中に
朝の澱粉工場は、活きている。
ドドドド……落ちかかる水流を抱いて
息もつかずに、水車が廻る
それからベルトとベルト
芋洗い機が角をふり廻している中で
泥まみれの芋は身体を洗って
健康な微笑みを揚げる
淡赤いからだを転がしてロールに飛び付くと
ツーと水になって泡立った澱粉が
桶いを流れる
スプリングの揆く音、べるとの交錯
男の唱声がその中に織りこまれる
朝の交響楽が空に流れ出て大気に融け込む
朝の澱粉工場に新しい躍動が開始される
(前川昌之記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉