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日新地区における澱粉工場

日新、清富地区の澱粉工場で、私の一番古い思い出は、作佐部牧場(佐藤某経営)に大正三年頃あったのを覚えている。子供の頃、昔の部落割りで鰍の沢入口から鰍の沢を越えて軍用地によく魚釣りに出掛けたものだが、鰍の沢の入口に欄干橋と言って当時、ほとんど土橋なのに珍しく欄干の付いた板橋が架かっていた。その橋の近くに澱粉製造の時、晒し水に使う真水を板の樋で引いて使っていたのを見たことがある。鰍の沢は真水であるが、不足していたのか、木内清さんが居た所の清水も集めて使っていた様だ。
工場をやっていた人は佐藤某と聞いているが、当時開拓に入った人達を出面に使っており、佐川団体の現在私の居る所からも出面に行ったと言うから可成り大作をしていたものと思う。大正十五年の十勝岳爆発の時、鰍の沢に泥流が逆流して入ったが、その時には澱粉工場は無かった様な気がする。爆発の時、鰍の沢とフラヌイ川の合流点から今の美沢道路までの鰍の沢の道路が高かったので、欄干橋は流されたが道路は残り、爆発後も暫く残っていた。
次は、大正六年頃新井牧場主(新井鬼司氏)が澱粉工場を始めた。動力にフラヌイ川の水を用いた、今の白井啓治宅附近の川のカーブの所から幅六尺の水路で取水して、旧事務所の横を落差の強い旧佐川道路の入口に大きな水車、直径二十尺もあったろうか、動力の取出し箇所は金属の歯車を使っていた、水量は充分あるし、一部鉄の歯車の付いた水車で驚いた。晒し水は牛舎の沢の真水で、当時佐川団体道路側に沈澱槽を作り、乾燥室は佐川道路の高い所にあって、私共は見たことも無い大仕掛な工場だった。
当時は第一次欧州大戦の時代で、農村畑作地帯でも景気が良かったからと思う。畑作地帯の主作物として馬鈴薯は重要な作物だった。新井さんも畑作地帯の安全作物として積極的に馬鈴薯の耕作を奨めていた。特に平坦な鹿の沢台地に重点的に耕作をしていた菅原健作と言う人を主任担当とし、耕作の責任者にしていたようだ。澱粉用の馬鈴薯も新品種を導入して耕作を進めた。馬鈴薯の耕作は初めは食用が主であり、新品種として赤薯を作らせるようになった。赤薯は紅丸だったろうか。鹿の沢高台地で耕作をしていた佐川団体の人達は、運搬上から余り作らなかったが、暫く健作薯と言って鹿の沢高台地に野生化していた。欧州戦争が激しくなって農家も運搬に手間のかかる馬鈴薯から豆類に目を向けるようになり、澱粉工場の経営が余り芳しくなくなって来た。
大正十三年か十四年だったと思うが、工場で働いていた佐々木某と言う若者が、水車の歯車に足を取られ片足切断の重傷を負い、また十四年牧場主が道議会議員の応援運動中に急死したりで不幸が続き、更に大正十五年五月二十四日十勝岳の爆発で新井牧場が潰滅した。誠に不幸なことである。
昭和に入って六年か七年頃だったと思うが、清水沢の奥、滝の沢に白井弥八さんが、日新、清富地区の馬鈴薯を原料に、可成り大きな工場を建てて澱粉製造にかかった。当時は戦争が始まった時代で馬鈴薯澱粉が農作物として重要なものとなり、耕作にも力を入れるようになった。その後、同工場は弟の白井東北さんに譲って鰍の沢の出口(南川さんが居た所)に新工場を建て製造を始めた。それによって日新、清富地区の薯は殆ど白井さんの工場に集まった。
第二次世界大戦終結後昭和四十年頃にかけて澱粉工場が各地で統合され、富良野沿線の工場の多くが合理化工場に合併されたが、白井澱粉工場は個人で操業を続け、色々と耕作農家の面倒を見るので、部落民から喜ばれた。第一次欧州大戦から今次世界大戦まで、農村に大変大きな変り目があり、耕作する作物にも様々な影響があったが、今日まで矢張り北海道では安全作物として、馬鈴薯が栽培されている。
最近では澱粉に加工するばかりでなく、食糧として栽培される重要な作物に成って来た。新しい形態の馬鈴薯加工品が多く出廻ることは、世界的傾向である。冷涼な北海道では、寒冷地作物として何時までも重宝がられているだろう。
(佐川亀蔵記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉