江幌溜池と日の出ダム
三重団体が草分地区に入植して開拓が進むにつれ、ソバや麦、薯などの粗食に堪えてきた人達も、米の飯の味が忘れられず、川や沢の水を利用して、各人毎に競って稲作りを始めるようになった。
時の道庁は、その機運を察してか、明治三十五年に、土功組合法を制定、真ちにこれを発布した。
然し、当時稲作の増反とともに、用水組合は各地区にあったが、これらの組合を統合させて「草分土功組合」を設立し、当時の村長吉田貞次郎を組合長として正式な認可を受けたのは、大正十二年であった。
たまたま、この年の七月に至って未曾有の大旱魃に襲われ、フラノ川を源流とする潅漑用水を巡って大混乱となった。各土功組合同志の話合いも不調に終り、我田引水の実力行使は石の投げ合いから肉弾突入の流血の惨事になってしまったのである。
当時、私は小学生だったが喧嘩早かった近所の小父さんが頭や手に包帯をしていたのを覚えている。
事態を重く見た官庁や各土功組合は、再発を防止すべく対策を話し合った結果、エホロカンベツ川の上流に溜池を作るべく検討を進めている中に、大正十五年五月、十勝岳の大爆発に遭遇して情勢は一気に「江幌溜池」建設の運びとなった。昭和二年八月これを申請し直ちに、当時約八万円近い請負工事の形態で着工したのであった。
然しながら当時、開発途上であった工事関係の設計技術、機械の不備、労働条件、等々の不充分のままに、工事を急いだ故もあってか、試験堪水には至ったものの、一部に漏水があり再度申請を行い補修工事を行ったが完全成功には至らなかった。
あらゆる工事方法を用いつつの執念は遂に実を結び、昭和十二年に至ってようやく完成する事ができ、その後の水不足も暫時に解消する事態となり、組合員一同胸をなで下して完成を喜び合った。
因みにこの溜池は、今は亡き吉田、金子両村長並びに工事責任者久野春吉氏等の尽力によるものであった。
完成後の管理は地元の包子儀一、現在は、子息の同義昭氏に委ねられ、広大なルベシベ御料林で涵養された真清水を満々と湛える名所にもなっている。
江幌溜め池完成後も、戦事中食糧増産の煽りもあって、造田の一途を辿る稲作農民の要望に応えるべく、昭和四十年には日新ダムの着工となり、多額の資金が投じられて、昭和四十八年完成し、『富原の湖』として受益者に真水の潤いをあたえている。
これに次いで、防衛庁の全額負担に依る日の出ダムも昭和五十七年に完成『穂源の湖』と命名され、落成記念として、草分土地改良区二代目理事長仲川善次郎の揮毫に依る重量実に六十屯もの大石碑が、三代目理事長故松下金蔵の尽力に依り建立されて、現在、事務所の右手前に先人の偉大なる功績を讃えるが如くその威容を誇っている。
尚、この記述は四代目理事長、北川恒夫の御協力に依り、草分土地改良区所蔵の文書に頼ったものである。
(水谷甚四郎記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉