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亜麻

亜麻の種子は元禄時代医薬品として試作されていたと言われるが、本町では明治四十一年一色仁三郎が亜麻耕作を行ったと記録されている。
帝国繊維に長年勤務された櫻井 東氏(富良野市在住)、並びに岩田賀平氏のお話や資料をもとに記してみたい。
一色が耕作を始めた明治四十一年、富良野管内に百三十ヘクタールの作付があり、新十津川の工場に全量運んだとの事であるが、繊維作物として取り上げられたのは大正年代に入ってからで、大正六年帝国製麻が富良野に工場を新設し大正七年から操業を始めたと言われる。
また大正九年上富良野にも二工場が建設された。
東洋製繊株式会社が現在の中町に五ヘクタール、日本麻糸株式会社は現在の緑町に十三ヘクタールの敷地を、それぞれ島津農協より二十年間の契約で借り受け耕作にのり出した。しかし日本麻糸株式会社は使用予定の水が強酸性の為使用する事が出来ず操業には至らなかった。また東洋製繊株式会社も三年間の操業で大正十三年に工場を閉鎖している。(富良野地方誌より)
亜麻の茎は浸水して茎を腐敗させ繊維を分離採取する訳だが、この為にはあくまでも癖のない水が要求される。水質の悪さが工場閉鎖につながったものだと思う。一説には大正十五年十勝岳の爆発で泥流に流されたとあるが、以前に工場は閉鎖され残った建物が被害にあったようだ。
工場閉鎖に伴い、場内に祭祀されていた伏見稲荷は当時江花の山形団体長であった大場金五郎氏が譲り受け自宅近くに祀り、その後江花二北組の守護神として、現在も大切に祀られている。
亜麻の作付された面積を調べてみると、大正六年の六ヘクタールが最初で、以後大正七年、八年共に二十ヘクタール位だったが、東洋製繊が操業を始めた大正十年には一五四ヘクタールと面積は増えた。しかし三年間で工場は閉鎖され、結局大正十四年以降は富良野帝国製麻との契約栽培へと変って行った。
大正七年の操業以来大正十五年迄の間に、耕作面積の関係もあり二年間程富良野工場をストップし、全量を美瑛工場に運んだ事もあったと言う。
昭和に入ってからは、四年から十二年頃迄の間、百二十から百五十ヘクタール位の耕作面積であったが、その後軍需作物として大々的に奨励されその面積は急増した。昭和十三年には二百四十五ヘクタール、昭和十四年には三百五十五ヘクタール、昭和十六年四百十ヘクタール、昭和十八年五百三十二ヘクタール、昭和二十年には五百六十二ヘクタールと増加の一途をたどっていた。
畑にバラ播きをし七月下旬から八月上旬に六十糎から九十糎位に伸びた亜麻を抜取り、小さな束にし四束から五束位立て、乾燥させ、脱穀後横積みにして乾燥のため保管し、九月の出荷時期になると町内各地に此の亜麻茎の大きな山がいくつも作られた。
澄んだ秋空の下、赤とんぼの群れ飛ぶ星に突如として出来上った、壮大なその偉容は季節的な風物詩でもあり、うす紫色の可憐な花が風にゆらぐ亜麻畑と共によく詩や歌に詠まれたものであった。
此の亜麻茎は冬期間馬橇に大きな枠を組み、馬の背以上の高さに積み富良野工場迄運搬した。これも農家にとって貴重な副収入だったと語られている。
亜麻茎の繊維は軽く良品質のものは、ハンカチ、ワイシャツ、シーツなどの外に陸海軍の夏服、シート、ホースなどに加工され、特に軍需関係に利用されるのが大部分であった。また種子は医薬品や油として温床の油紙に、また食用にと使用されていた。
終戦後も作付されていたのだが、昭和二十七年に三百二十三ヘクタール作付されていたと言う以外、その集計的な資料は見当らない。
その後日本の工業化は進み、ナイロン、その他の人工繊維の精製技術が高度化し、大半の衣料品はこれに変わって行った。この為昭和四十二年帝国製麻富良野工場は閉鎖され、五十年にわたった亜麻の歴史は終わった。
(安部彦市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉