除虫菊
青豌豆(あおえんどう)の成金時代の終ったあと、除虫菊による好景気時代があった。大正の初期、和寒が先進地として除虫菊の栽培を始め成果を挙げていた。本町はそれより三年か四年おくれ、大正五年江花の大場金五郎が和寒より種子を導入して苗を作り、江花地域で耕作が始まったといわれる。また大正八年には里仁地区で藤本が岡山県から種子を取り寄せて苗を育成し、これが里仁方面に拡大され、荒周四郎を会長とする約三十名の耕作組合が設立された。中沢新松が三町歩、津郷三郎八町歩、少しおくれて静修の春名金太郎が六町歩の大面積を耕作したと言われ、特に西山方面は作付が多く全山が白い花で埋った。
また日新では、白井弥八が中心に作付し、現在の鰍の沢が菊の沢と言われた時もあった。
品種改良による新品種北海一号を最初に取り入れたのも上富良野であり、乾花量も多かった。上富農産の大柳氏の話によると、植付してから三年〜七年位まで一反当り十貫目位の収穫があり、単価は一貫目五円位だったという。当時小麦は一俵一円五十銭位だったので、除虫菊の高価格による好景気によって、黄田大工さんの施工で縁側付の住宅が、各地に新築されたものだった。佐川亀蔵氏の話によると、此の除虫菊の種子は岡山県や遠く台湾までにも送ったと言う。虫下しの原料ミブヨモギに夜盗虫(よとうむし)がついたように、除虫菊にも虫がついて大騒ぎをした時もあったと元農業改良普及員の岩田賀平さんは語っている。終戦後も耕作されていたが、DDT、BHCといった化学薬品の進出に押され面積は減少の一途をたどった。
古い統計資料からの作付面積、反収、単価を見ると表のように記されている。
(安部彦市記)
年度別 |
作付面積(ha) |
反収 |
単 価 |
大正 九年 |
十四町 |
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大正十四年 |
一五八町 |
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昭和 二年 |
二一〇町 |
八貫 |
二円五〇銭 |
昭和 八年 |
三八二町 |
八貫 |
五円○○銭 |
昭和 十年 |
七一八町 |
七貫 |
一円九八銭 |
昭和十五年 |
五九七町 |
六貫 |
六円一〇銭 |
昭和十九年 |
三六一町 |
八貫 |
六円八五銭 |
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉