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甜菜(ビート)

本町に甜菜が栽培され始めたのは大正十一年、寒冷地作物として明治製糖株式会社が上富良野に派出所を設立し、道などの奨励作物として耕作された。
当時は直播であり、間引、収穫共手作業で小面積の耕作であったが、間引作業は時期が田植と重複する為、労務者の確保が容易でなかった。更に雨不足による発芽不良の為、廃耕する圃場が毎年相当の面積に上った。此の傾向は重粘土地帯に多く、また土壌の軽い地帯は五月、六月の風害により廃耕する面積も多かった。昭和二十年前後は肥料不足、労力不足で直播栽培は自然に敬遠された。
当時の十アール当りの収量は一トンから二トン止りであった。更に、金輪の馬車による搬出は積込の重労働、整備されない道路など悪条件が重なり、面積、収量共に低迷の時代はしばらく続いた。しかし、昭和三十七年に日甜が開発した紙筒栽培法が導入され、その結果は直播に比し三割以上もの増収が可能となり、その後、大々的な指導普及により一戸当りの作付面積は増加した。昭和四十五年には、水田転作に始めて取り入れられ驚異的な収量を上げた。転作の拡大と共に増反は進み、昭和五十三年には、その休耕面積の四三%を占める迄に至っている。
此の頃より、甜菜栽培の機械化に関する開発は急ピッチに進み、その速さは目を見張るものがある。
播種については単胚種子が着色ペレット化し、突起板使用のミニプラントを利用する事により発芽が均一化し間引作業が軽減された。移植機も細部にわたり改良され、センサーが働き空ポットはカットされ、決められた本数を確実に移植出来るようになった。
防除についても、背負い噴霧器から始まり、撤粉器による粉剤撒布、ミスト機、動力噴霧機と次々に移り変って来たが、今日ではトラクターによるスピードスプレヤーが導入され、除草剤を始め各種薬剤撒布も完全に行われている。重労働であった収穫作業も各メーカーにより開発されたハーベスターの登場により、能率アップは一段と進み期日迄に全量集荷出来るようになった。播種から移植、防除、収穫迄のすべてを機械化されている作物は、甜菜のみと言えよう。
直播、間引、除草、収穫、馬搬出と、すべて手作業で行って来られた方々にとって、機械化された現代の姿は、本当に時代の移り変りと、今昔の感を深く抱かれておられる事と思う。昭和三十年代〜四十年代には考えられなかった十ヘクタール〜十五ヘクタールの栽培農家も出始めている。現在上富農協甜菜部会は一八〇名の会員が七一五ヘクタールの作付面積を有し、片倉貞夫部会長を中心に、指標面積の遵守と収量増加、高糖分の品質向上に向けて努力を続けている。
今後原料価格の問題、更に砂糖の国内個人消費減や、甘味加工輸入品の増加と厳しい面も多々あるが、完全に機械一貫体制のもとで栽培される甜菜は、畑作物の中心であり、我が国の主要甘味資源として定着化して行く事であろう。
(安部彦市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉