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馬鈴薯

開拓当時自家用として色々な品種が作られていたようだが、雪片(ユキガタ=スノーフレーキ)は最も北海道人に親しまれたようだ。大正二年頃には金時芋が作り始められた。此の芋は越冬させて春先に掘り出して食べると甘味があり、甘藷を懐かしく思う人達の間で喜ばれ、昭和に入ってからも作られていた。その後夏芋としてアーリーローズが食用として作られている。
昭和に入ってからはペポー、エゾニシキ、男爵芋、紅丸、農林一号、メークイン、エニワ、ユキジロ、トヨシロ、ワセジロ等いくつもの品種が登場して来たが、何れも時代に即応したもので、澱粉工場が各地にあった頃は紅丸の面積も多かったようである。紅丸は昭和十三年、岩田賀平が二俵の種子を手に入れ、旭野地区の深谷栄一が最初に栽培したとの事であるが、此の時期の品種も時代の流れと共に移り変り、今日農家が主として作っている品種は、男爵と農林一号になっている。
戦時中は国策として、食料自給の必要性に伴い奨励され面積も少し増えたが、何と言っても一粒ずつ蒔いて土をかけ鍬で培土と言う播種管理と、一鍬一鍬掘り取り予乾をしての収穫は極めて労力がかかり、余り大きな作付増にはならなかったようである。その後、スガノ農機が開発した馬引き用の培土機や掘取機は多くの農家に喜ばれた。更に耕転機やテーラーによる芋掘機と収穫機具の改良が進むにつれ面積も順次増えて来ると共に、動力噴霧機も導入され、背負い噴霧器や撤粉器を使用していた頃に比し、病害虫防除の効果も上り馬鈴薯の作付は着実に伸びて来た。
昭和二十年の後半大場清一を組合長とした大雪馬鈴薯生産組合が設立され、農協を通じながら、府県市場の開拓と流通対策に努力された事はまだ多くの人々の耳目に残って居る。此の流れは長く受け継がれ、昭和五十五年に上富良野農協馬鈴薯部会が誕生した。今日ではトラクターによる播種、防除、掘取りと機械化され、面積も多く食用芋部会は一四二名の部会員を有し、五七〇ヘクタールの馬鈴薯を栽培している。
馬鈴薯の加工品ポテトチップスを初め種々の食品を加工して居るカルビーポテト株式会社との間に、加工用原料としての供給も始まり、上富良野産、美瑛産の馬鈴薯を大々的に使用する事になった。昭和五十八年、里仁地区に加工用馬鈴薯倉庫を新設し、此処に原料馬鈴薯を集荷保管し工場に直送している。
上富農協は従来迄の馬鈴薯倉庫の外、平成五年に貯蔵庫並びに選果場を新設し、ここで春迄の間選果して、随時関東圏を中心に広く府県市場に出荷している。最近、個人選別を行なって十キログラム箱に詰め出荷する農家も多くなっているが、生食用、加工用にと本町畑作の基幹作物馬鈴薯が、農家経済に寄与する所誠に大きく極めて重要視されている。
種子馬鈴薯
馬鈴薯の種子を供給して居る種子馬鈴薯部会の存在を忘れてはならない。内地府県に於ては、高温の為種子生産の大敵である油虫の発生が盛んで、萎縮病が多発し自家採種が不可能に近い為、温度の低い北海道に此の補給を求めて来た。
此れに対応して昭和二十三年、故石川庄一を組合長に故手塚官一を副組合長とした種子馬鈴薯採種組合が設立され活動が続けられたが、昭和五十五年から種子馬鈴薯部会に統一された。今日では十七戸の耕作者が、六月下旬から八月上旬に至る迄、植物防疫所並びに普及所、農協の補助検査を受け、厳しい管理体制の下で男爵三〇ヘクタール、農林一号二八ヘクタールを原種、採種、更新用に分けて栽培されており、町内はもとより道内、道外へも移出されている。
先般来日されたペルーのフジモリ大統領の談話の中に、「アンデス山脈一帯(高原地帯)が原産の馬鈴薯は三百種類もあり、今後北海道とも交流が進むうちに品種の改良も進むであろう」とあったが、食味のよい収量、品質共に高い馬鈴薯の出現を期待したい。
(安部彦市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉