豆 類
開拓と同時に自家用として作られていたものと思われるが、先に入植した人々から種子をもらい作っていた。冬期間、雪の上で伐採をした木の株が六尺位も残って居り、墓場の間を縫うように窓鍬で開墾し、種子を蒔いたものだ。欠株が出来たら棒で穴をあけ、種子を入れて踏みつけておいた。またよく夜盗虫が大発生し、夜になると作物を食う音がザーザーと雨が降っているように聞えた。地面に排水路の深い溝を掘り、虫の移動を食い止めたり、神社やお寺からおふだを頂き、木の先につけて各所に立て神佛にすがった事もしばしばあった。豆おとしはカラサオを使い、一度落した豆殻は集めておいて翌日もう一度おとし一粒も無駄にしなかった。明治時代後半の古老の方の話である。
大正年代に入り欧州大戦が始まり、豆類、特に青腕豆、手亡等がイギリスに輸出され空前の雑穀ブームに沸き立った。平素は省みもしなかったような荒地も、先を争って開墾され、一戸で青腕豆一二〇俵、手亡二〇俵とか出荷する者もあり、豆成金が至る所に続出した時代であった。
当時上富良野には一四軒も雑穀屋があり、買い子は馬に乗って豆の買付けに廻ったと言う。眞新しい札束を胴巻きに入れてよく紅灯の巷を賑わせたり、内地旅行に出かけたり、また賭博も盛んで一夜にして馬をとられたり、数百円の金が動いたとか、今でも語り伝えられて居る。しかしその後、大戦も終り連作障害などもあり、大正九年頃には成金の時代は終った。
昭和に入ってからは小豆も大納言小豆が主流となり、手亡も小手亡から大手亡に、長うずら、丸うずらも中長うずらに、金時も本金に、美瑛金時、紅金時なども大正金時にと各品種も変っていった。それに遅蒔きでも収穫出来るビルマなども作られた。大豆は秋蒔小麦の間作が主であった。
昭和四十年後半より水田の休耕が始まり、小豆、大豆などの作付が急激に伸びた。土地が珍らしいせいもあり、品質がよく収量も多く転作田の主流をなしたものである。結果的には、既存の畑作農家の足を引張る形となった事も、農政変革の中の一頁であったと思う。
此の頃から作業機具の改良も進み、播種から刈取り脱穀に至る迄の各機種が、新しい形で産れ、作業面での改革も進んで来た。
今日は投機的な面は強いものの、豆類の主流は小豆であり、えりも、北の乙女が主で、さほろ、おとふけ等の品種があり、七〇〇ヘクタールの作付がなされている。金時は大正金時、北海金時、他に丹頂金時福勝などで七〇ヘクタール位、大豆もトヨムスメ、カリユタカ、秋田大豆などで六〇ヘクタール位、中長は二十ヘクタール位である。大正時代に豆成金を産んだ豌豆は、今日では赤腕豆が主体で、北海赤花が九〇%作付されており、作付面積約二〇〇ヘクタールは全国一である。本町の特産物として日本一の生産量を誇っており、みつ豆、ラクガンなどの原料として国内需要の六〇%以上を満たしていると言う。
上富良野農協は昭和五十四年に豆類調整工場を新設し、また上富農産も調整工場を設立し、共に上富良野産豆の品質向上を目指して努力を続けている。
(安部彦市記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉