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燕 麦

大正から昭和にかけては軍国日本であり、富国強兵を国是としていた。軍事能力のうち軍馬の占める地位も決して少なくなかったので、その飼料の基礎になる燕麦は重要視されていた。
ことに北海道はその主なる供給地であったが、誰が初めて種を入れ生産されたのかは明かにされていない。上富良野産の軍用燕麦は量の上でも質の上でも常に他の産地をリードしていたのである。
昭和六年から十年まで五ケ年の軍用燕麦納入成績をみると、上川支庁管内の七割に当る成績であった。
日支事変後大東亜戦争にかけて約二千町歩、七万九千俵を出荷した。農家には春に割当をする契約栽培と言うことであった。
このような結果となった主な原因は、上富良野村農会長が軍人教育を受けた吉田貞次郎氏であって、軍人魂で農村を指導し愛国心を農民に植えつけたことと、燕麦そのものの生産に適していたことなどがあげられる。
そのためか、戦後においても、日本馬事会では競走馬用の燕麦は上富良野産と指定されてくるので上富良野農業協同組合では品質を揃えて発送していた。
地区別にみても新井牧場の新井鬼司が熱心に進めたことから、佐川団体が代表的な産地となり、草分に燕麦主作物時代をつくった。江幌の星野秀治が明治天皇の御乗馬の燕麦を献納し、旭野の川野龍平が第七師団長から軍刀をもらったというのも軍用燕麦によってである。
又、里仁の共進農事組合では数山文治が組合長だった頃、軍用燕麦指導集落となり、町内に於ける優秀な成績をおさめた。このため「前進」という優良品種が最も速く普及したのである。
このように軍馬、競馬と燕麦の黄金時代を築き維持して来た上富良野であった。
(桑田輝市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉