薄荷(ハッカ)
ハッカは野の花でヨーロッパが原産地であるが、現在ではほとんどが野生化している。しかしそのハッカを農産物として生産した方がいる。それは清富にお住いの故村上国夫であった。
耕地のほとんどが傾斜地で、その上傾斜がきつくプラオによる耕転も片耕しのため農産物を生産するには大変な苦労の繰り返しであった。そこでこの傾斜地に一度苗を植えれば長年に亘り生産ができ、且つ他の作物に比べ生産性が有利であるハッカ栽培を考え、地区内の若者六名と相談をした。
昭和二十三年春、先進地北見ハッカ工場及び生産地を視察、研修すると同時に試作用の苗在来種「レンヨウ種」を持ち帰り、各戸が栽培することにした。
その後数年間青刈り、ハサ掛け、乾燥したものを貯蔵していたが、油を搾るには蒸留工場が必要な事から、過去数年間の試作を基に本格的な生産と油を搾る蒸留工場を設立する事になり、昭和二十六年三月、七名によるハッカ組合を設立、組合長には村上国夫氏が就任した。
同年六月、本畑に苗二万一千二百本を約三反歩に移植する。一年目のため間作として長ウズラ、白金時、中長等を植えた。(六月八日)
除草は七月中に三回実施し、青刈りは九月二十六日、速ハサ掛けをし、乾燥は十日前後、乾煉したもの三十貫九百匁で、蒸留した油は七組(一組は四合瓶二本)だった。生産価格は反当換算一万円であり、当時他の作物の反当価格はビート九千円、大納言一万円、馬令書九千五百円、玉ねぎ一万七千円位であった。
尚蒸留した殻は家畜の飼料及び風呂等に使用した。
悪条件のこの傾斜地に於いて、高い生産性が得られるのならと意慾を向上させ、昭和二十九年には新品種「涼風」を導入する事になり、農協担当者桑田と生産者二名の計三名で、北見より汽車で苗運びをした。
約十年間位の生産を続けていたが、輸入の自由化が進み外国からの安い油が入り価格が低下し、今では家の回りの野の花となっている。
(桑田輝市記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉