郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

麦 類

裸麦年度別作付表
年度 面積(ha) 年度 面積(ha)
明治38年 340 15 248
39 375 昭和2年 264
40 381 3 218
41 390 4 215
42 395 5 199
43 400 6 238
44 371 7 311
45 630 8 310
大正2年 788 9 242
3 1,024 10 254
4 1,180 11 282
5 900 12 307
6
(中富良野分村)
360 13 279
7 294 14 245
8 650 15 235
9 528 16 307
10 484 17 350
11 457 18 404
12 329 19 351
13 349 20 274
14 308
開拓と共に作付された馬鈴薯、南瓜、ソバの外、殻物としての麦は当然取り上げられる。裸麦と小麦、それも春蒔きと秋蒔きに分けられる。
裸 麦
裸麦は春蒔きであり、当初人力で耕していた頃の面積は限られていたと思うが、いなきびと共に主食として少しでも多く作らなければならなかった。
裸麦の特徴は穂先に長い芒(のぎ)がある事だ。此の芒はカラサオで脱穀する時も、脱穀した後も始末が大変であったため、生活の知恵と言うか、むかしから此の裸麦に限り此の芒を焼いて茎から穂を取る、いわゆる麦焼きの方法が取り入れられていた。八月に入ると夕方から風のない夜にかけて、此の麦焼きの灯が各所に見られた。確かに火が消えたのを確認してムシロで覆っていくのだが、朝来てみたら一ケ所の麦が全部燃えてしまっているところがいくつかあった。焼いた穂はカラサオで落し、丸麦をその侭煮て食べるか、ウスを使って表皮をとり、いなきびや米と混ぜて食べた。その後サッと茄でて手廻しの麦圧ぺん器でつぶして食べるようになり、学校から歸った子供の仕事として、ランプのホヤふきと共にさせられたものだった。何れにしても主食であり全戸で栽培されていた、品種についても先人や知人、先輩からもらった在来種だったが、大正八年〜十年頃に、丸実十五号、丸実十六号、三月子一号などの品種が出て来た。
また終戦後上川試験場美瑛支場で試作された、秋蒔裸麦については、清富開拓の金森市郎氏の稿によると、反当り十二俵も収穫出来たとある。北斗裸、紫裸と名付けられ、昭和十九年の新品種であった。冬枯れや赤錆病の関係があってか、美瑛と上富良野地帯にだけ作付されたようであり、面積、収量とも定かではない。
裸麦の稈(わら)は柔かく脱穀機を利用するようになった後、牛馬の飼料に利用したものだった。
裸麦の作付面積を年代別に記してみるが、町にも農協にも古い資料はなく、岩田賀乎さんの手持資料を使わしてもらう、それも終戦迄、その中で大正六年中富良野村分村により面積が変っている点も、見てほしい。
秋蒔小麦
現在米が主食であるが、時代の流れは朝食にパンでと言う家庭が、農家でもふえて来た。開拓一世紀で此れ程変るとは誰が予測出来たであろうか。
米の飯を夢みて米作りに取り組み、遂に北海道米を完成させたように、麦についても小麦に課せられた分野は広く大きい。パン、ウドン、ラーメン、ソーメン等に供される小麦も、開拓当時は裸麦と共に大切な食料であり、一握りでも増反されたものだ。
夏作物の亜麻、えんどうの跡作として蒔付し、越冬して七月末刈取り、八月に入って脱穀と言った姿は、くり返されて来たが、最近では大型コンバインの普及により、たちまち刈り取られライスセンターに運ばれる。
小麦の収穫は七月末、一鎌ずつ刈取り「ニオ」に積むのが上富良野神社祭典前の大仕事であった。
脱穀した稈は牛馬のよいしき藁として利用し、その後堆肥に積み込んだものである。また小麦の稈は、特に赤錆不知一号の稈は長いので、小屋や納屋の屋根に利用した、一戸の屋根をふくのに約二町歩位は余計に小麦を作ったものだった。
開拓当時の品種を見ると、明治四十年頃から大正初期にかけて、赤皮、ドーソンなどが作られており、その後は終戦後迄も、比較的痩(やせ)地でも作付可能な、赤銹不知一号が主体となって来ている。
明治末期からの作付面積の移り変りを記してみたい。但し終戦後の記録が約十五年位町役場、農協に見当らず、昭和三十五年以降の面積をのせるが、此の数字の中には春小麦の面積も含まれて居り、近年のわかる範囲で別記してみる。
品種も大きく変り、赤鋳不知一号は姿を消し、タクネ、チホク、ホロシリ、タイセツ、ホクシンと移行し収量も増加して来た。重労働であった収穫作業も大きく軽減され、更に面積は増える事だろう。
今後は業者に喜ばれる新しい品種の開発に収量増品種向上への努力を望みたい。
農協としては昭和五十六年に三百tサイロを、十二基建設し乾燥、調整にと真剣に対応している。
春小麦については、ハルユタカが主体で作付されているが、平成九年度は降雨の為収量皆無となった事は残念であった。
秋蒔小麦年度別作付表
年度 面積(ha) 年度 面積(ha) 年度 面積(ha) 年度 面積(ha)
明治38年 170 14 198 昭和20年 803 53 455
39 173 15 207 以下春小麦を含む 54 903
40 171 昭和2年 252 35 125 55 1,330
41 180 3 294 36 114 56 1,570
42 190 4 428 37 95 57 1,420
43 200 5 366 38 126 58 1,280
44 871 6 299 39 114 59 1,120
45 1,620 7 261 40 70 60 1,180
大正2年 1,243 8 406 41 42 61 1,340
3 1,615 9 488 42 22 62 1,440
4 1,750 10 561 43 13 63 1,300
5 550 11 732 44 21 平成元年 1,210
6
(中富良野分村)
250 12 755 45 31 2 1,120
7 145 13 816 46 13 3 1,150
8 230 14 953 47 7 4 1,220
9 332 15 1,101 48 8 5 697
10 367 16 1,111 49 43 6 762
11 414 17 1,099 50 61 7 秋小麦 春小麦
363 327
12 320 18 1,095 51 108 8 533 272
13 181 19 931 52 180 9 603 170
種子小麦
異品種の混入を防止し、品質良好な小麦の生産を推し進めるべく、昭和五十三年十四戸の耕作者で、秋蒔小麦採種組合が設立された。当初は原種二町二反、指定十四町五反、緊急七町六反の種子の栽培をしたのが初まりで共同抜取りを行い、普及所や生産連の厳正な圃場検査を受け、良質な種子の生産に努力している。
新屋勲夫を初代耕作組合長として、タクネ、ホロシリの採種をしたのが始まりで、原種圃、採種圃から、町内はもとより町外にも優良小麦種子の出荷を行っている。
昭和六十二年に上富良野農協種子小麦部会が、結成され現在二十九名の部員が瀬川英幸を会長に選出し、より良い種子の生産に、取り組んでいる。
作付されている面積は、平成三年頃より六十町位、あり作付け品種も平成七年にはタイセツ、チホク、ホロシリ、平成八年はタイセツ、ホロンリ、平成九年にはホクシン、タイセツにと変って来ている。
(安部彦市記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉