水 稲
北海道の稲作は明治時代に入るまで、寒いから稲は育たないものと一般的に考えられ、北海道開拓の指導的地位にあったケプロンやクラーク博士も水田禁止を主張したという。
又、この時期には屯田兵に対して稲作禁止が出されるほどであった。しかしこういうなかでも、父祖伝来の長い食生活を米からきりはなすことの出来なかった人々は、なんとかして米を作りたいと思った。
今ここで古い北海道史の米つくりから筆を起すと、これら多数の悲願に対して札幌郡広島村字島松に移住して来た河内国生れの中山久蔵が、明治六年「津軽早稲」の中から選出したのが、早熟耐冷性の赤毛であったという。
ここで安定化した赤毛の自作種子百俵が、方々の篤農家に分けられたのが明治十二年である。
つづいて石狩、胆振、日高、天塩、十勝、北見と全道に数百俵が提供され、北海道米の父となった。
上川にもこの系統がきているのだろうと記されている。
富良野線の稲作については、米で有名な富山県下、新川郡加積村に生れた櫻坂源三郎が代々農家の血をうけついだが、北海道に着眼して明治二十九年三月に上川郡神居村雨粉に移住して水稲栽培をし、明治三十一年四月上富良野村(中富良野をふくむ)に移住したのである。
上富良野町に於ける水稲の元祖は、明治三十三年田中常次郎と山口五平が一町五段歩の栽培をしたとされ、田中常次郎は草分であることはもちろんだが、山口五平は東八線北十六号で赤毛種を作つけ、東中の古老の話では三段歩、反収二俵をあげていた。
北海道米百万石祝典は大正九年十一月二十三日、北海道会議事堂において行われたが上富良野村から功労者として名をつらねた人は次の四民である。
水田開発功労者 田中常次郎 〃 田中 亀八 〃 西谷元右工門 水田試作成功者 十川 茂八
田中亀八は田中農場主であるが、実際上ここを経営したのは田中米八である。東中の古老座談会では田中米八が東六線北十六号と十七号の間で造田したのが東中の造田の起源だという説も出たが、その年代は明治四十一年と言う事なので、矢張り元祖は明治三十三年の山口五平と言うことになる。
試作功労者の十川茂八は東七線北十六号であるが、地元東中ではこの人を水稲の元祖だと言っている者もあるので、大正九年に試作功労者として表彰をうけているところを見ると水稲栽培の先覚者の一人に相違ない。
(桑田輝市記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉