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上富良野地区労働組合協議会(略称 地区労)

労働者の団結で「働く者の生活と権利を守る」を目的に、戦後、全国各地で労働組合の結成と、その地区の労働組合連合体的な地区労働組合協議会(以下地区労と称す)が組織された。
終戦による荒廃した国土と物資、食糧不足による生活は大変な中で、日本の復興に労働者として懸命に耐えて働いて来た。日本の民主化運動にも大きな足跡を残した。
上富良野の労働運動は、戦後と共に官公労を中心として、組織縦割での下部組織が活動を展開していたが、その協同体としての地区労組織はなかった。
昭和三十三年三月三十一日、上富良野農協役員会にて「和田松ヱ門氏」を昭和三十四年四月に行われる北海道議会議員選挙の出馬について協議が行われた。昭和三十三年九月に、中富良野・上富良野の農協関係者が和田松ヱ門の立起について会談した。
当時、富良野沿線の状況は、奥野善造(自民党)・森田藤八(協同党)・山部町の島田清一と和田松ヱ門の立起が予想された。
和田松ヱ門と島田清一が農民票と共に労働者票獲得の為に、日本社会党の公認又は推薦を争う事になった。
その為、地元の推薦母体として「日本社会党上富良野支部」と「上富良野地区労働組合協議会」の結成について、関係者から革新的な活動家や社会党支持者、そして労働組合役員に強く要請されたのである。
その要請に基づき、日本社会党上富良野支部が結成された。地区労結成については、各単産代表者会議を森本春雄(国労)、山本純雄(全逓)が中心になって幾度となく開催した。
昭和三十四年一月十一日、道議選公認申請の関係もあって、正月の明けきらない時であったが「九単組、二百十七名組合員」結集によって「上富良野地区労」が結成された。
和田、島田による日本社会党公認争いは、「日本社会党上富良野支部」及び「上富良野地区労働組合協議会」の強い申請にもかかわらず、島田清一が公認を得たのであった。(島田は前年の道議選補欠選挙で当選し、一年間の道議としての活動も考慮された)
昭和三十四年二月七日、道議選に向けて和田松ヱ門後援会が発足(会長石川清一、副会長中西覚蔵・太田晋太郎・金子全一・村上国二、幹事長手塚官一、副幹事長一色正三・菅野 学・水谷 喬、会計久野専一郎・北川三郎)し、後援会活動及び選挙活動が展開された。
昭和三十四年四月二十三日投票の道議会議員選挙の結果は、和田松ヱ門は善戦したが、富良野地方を地盤とする四候補の乱立によって、森田・島田・和田の三候補が落選した。
和田松ヱ門の道議落選と、その後の選挙違反事件もあって、社会党支部及び地区労は打撃を受け、その活動も一年数ヶ月で停滞してしまった。
昭和三十八年四月に地方統一選挙が実施される事を基に、前年の昭和三十七年に各単組によって選対委員会が構成され、統一地方選挙は進められた。
昭和三十八年四月に当選した村上国二町長は、十勝岳開発道路専決処分の問題で、町長辞任、町議会解散となり八月に町長・町議選が行われた。
この様な情勢から、選対委員の各単組役員が「町政の民主的運営とガラス張りの町政実現」に上富良野地区の労働者の結集を図る事とし、地区労再建準備会が組織(会長佐藤 勝―北教組・創成小)され、地区労再建準備が着々と進められた。
昭和三十九年七月十四日、全農林・全林野の四単組、百八十名組合員の結集により再建されたのであった。
再建大会で選出された役員は次の通りであるが、地域労働運動のセンターとしてスタートをした。
議 長  今野 欽伍(北教組)
副議長  右田  工(全農林)
事務局長 丸藤 忠義(全逓)
事務次長 中村 有秀(全逓)
幹 事  二口正次郎(全林野)
     石倉  達(北教組)
     佐々木政登(北教組)
再建大会以後は、組織の拡大強化、自治体活動の強化等を含めて地道な活動が展開された。
自治体活動の中核として、町議会議員を推薦しようと、昭和四十二年八月の町議選には「菅野 稔」を推薦候補と決定した。
里仁住民会と地区労が共闘し、五百十票の得票で第二位で当選した。その後、菅野 稔を中心に住民に密着した自治体活動が推進された。
(中村有秀記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉