郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

供養・追悼碑

凱旋記念碑(上富良野神社境内)
明治三十七年二月十日に両国が宣戦布告した日露戦争に出征した兵士が、大国ロシアとの戦いで勝利した。明治三十八年九月十六日休戦が成立し、凱旋した上富良野出征兵士七名(全国で約七万人の戦死者あり)の武勇を讃え建立する。招魂祭は七月一日に行う。
奥野仙蔵君の碑(江幌)
明治四十年春、滋賀県の杉野村から滋賀団体十五戸の団長として江幌完別に入植し同四十四年六月十九日享年四十才で没した。
丸田吉次郎供養地蔵尊(東中)
大正六年十二月建立、丸田吉次郎は、力持ちで各地の相撲大会に出て人気者であった。大正六年八月十五日ベベルイ部落の余興角力大会で大関となり語幣を貰い、酒食のもてなしを受けて、その帰りの夜道で、熊に襲われ死亡したのを悼んで建立する。
忠魂碑(上富良野神社境内)
当初大正七年七月一日建立する。改装再建は昭和四十六年七月一日で、碑文は陸軍大将子爵大迫尚敏書で、「大東亜の曙を開く戦が終わりを告げて依り、ここに二十有六年長い荊棘の道を耐えきった私たち、その憶いは今更に言うまい、ただひたすらに明日の祖国の栄光を固く信じ、この碑を我が郷土出身の英霊に捧ぐ」とある。
中央部の忠魂碑は大正七年七月に、それまでの戦死者三十一名の霊を慈しみ建立した。昭和四十六年七月に町民有志が明治以来の忠魂碑を現在の形に整備し、新たに忠魂碑を建立して英霊の至誠を追慕し、その冥福を祈るため建立する。碑石内部には、生出宮司自筆による日露欧州大戦・満州事変・日支事変・大東亜戦争の犠牲者二七三名の御璽を、無節の白木に書き安鎮した。招魂祭は七月一日行う。
十勝岳爆発遭難記念碑(明憲寺)
大正十五年七月十七日除幕式を行う。十勝岳爆発災害記念と遭難者の供養のため建立する、題字は大谷光暢(真宗大谷派第二十四世法王)御書、前面下部の銅板に一四四名の名がある。
十勝岳爆発惨死者碑(専誠寺)
昭和二年五月二十四日、当初碑身のまま旧役場裏庭に建立。昭和三十七年十月一日に栄町の専誠寺に移設し、昭和四十一年か二年頃再び旧役場裏庭に移され、その後すぐ役場整地の際の昭和四十二年か三年頃に初田新作が自宅に預かった。初田氏は、昭和六十三年五月十二日供養して、ヌッカクシフラヌイ川(白樺精肉場付近)に流したが、同年八月三十一日同川工事の折川底から発見され、同年十一月二十二日専誠寺に再建された。
観世音菩薩(大雄寺)
昭和二十二年五月本堂左側にあって、海江田先祖代々の遺骨を納めることが出来る様に台座がある。
水難像防鎮魂碑(上富良野神社境内)
大島克己(八才)、杉本トシ子(二才)の二児の水難事故死者の供養のため、昭和二年六月五日建立。毎年六月五日に町内会で神式にて供養する。
十勝岳爆発横死者無縁塔(聞信寺境内)
昭和二年八月十三日、一周忌のお盆に無縁仏十二名の納骨を行う。「無縁塔」の名は無縁仏として埋葬された犠牲者が、来世で血縁あるようにと門上浄照師が配慮したもの。十勝岳爆発時の死体収容は、最初は山藤病院で、六月七日からは聞信寺境内となり、住職門上浄照師が無縁死体が仮埋葬のままあるを見るに忍びず、村内の喜捨により十二名の法名を刻み(吉田村長の筆)納骨式を行ったのである。
十勝岳爆発記念碑(十勝岳)
昭和三年十月七日に除幕式を行う。硫黄採取の旧元山事務所跡付近の泥流が見える丘である、大正十五年十勝岳の爆発の際平山硫黄鉱業所を主体とする火口付近と丸谷温泉の死者は現地で火葬されたが、このときの残骨を埋設し建立する。当初堂宇は、記念堂とも呼ばれ登山者の休憩所として利用され、又はストーブもついていた。昭和七年三月十二日、当時の北海道長官佐上信一氏一行が避難したとき、即興の歌を堂の柱に記したが風化解体して今はない。
詠 北海道長官佐上信一「吹雪して あやめも分らぬ 吹上の空に 聳びゆる 大十勝かな」
十勝岳爆発横死牛馬追善記念碑(草分三重)
昭和五年四月十七日に、草分三重部落の道端に御堂建立する。十勝岳爆発泥流で牛三頭、馬二十五頭、豚十頭、鶏六〇三羽、兎三羽が流されたのを供養する。碑身は見上げるほど大きい。
新西国三十三所観世音菩薩(大雄寺)
この観世音菩薩は近畿地方の西国三十三所の本尊(平安時代の末に巡礼が盛んになった)による。大正十五年五月二十四日十勝岳爆発時、大雄寺周辺にも泥流が押し寄せ、庫裡の床下が泥流で埋まった。
上川管内の災害救援隊員が、常時五十〜六十名が本堂に宿泊して復旧活動をした。第二十七番地蔵は一家九人全員が犠牲になった佐川政治家の為に、弟の佐川庄七がその霊を慰め供養のために建立した。
馬魂碑(富原丘町)
昭和十五年十一月(皇紀二千六百年)建立。当初は今の島津公園付近にあった家畜市場に建立された。後の昭和四十六年六月に、日の出二上の共進会場に移設、その後、昭和六十一年六月富原家畜共進会場に移設されている。
北海道はもとより上富良野の開拓は馬との共存によって為し遂げられ、家族同様に生活したものだが、それを生業としてきた牛馬南関係者が牛馬家畜等の鎮魂供養の為に建立した。
岡本三男の碑(十勝岳)
昭和二十九年六月二十九日に、十勝岳中腹の泥流地に建立する。岡本三男北大卒業後道庁勤務、旭川営林署、再生パルプ葛ホ務の傍ら本道の山の隅々まで足跡を残し、山が飯より好きな山男(日本山岳会会員)で毎年暮れから正月にかけては、家に居たことがないくらい十勝岳に来ていた、昭和二十年五月沖縄で戦死する。
故加藤伊之松碑(草分報徳)
昭和三十一年八月建立。草分報徳を始めて開拓した加藤伊之松の二代目加藤三蔵が供養のため建立し、三月十七日と十一月七日にお参りする。
獣魂碑(富原)
当初富良野線の屠殺場は富良野に一カ所あったが、昭和三十年頃より住吉区新栄町に小家畜の屠殺場が認可された。昭和三十二年富原に白樺製肉所が出来たが、その翌年(昭和三十三年)に屠殺される家畜類の供養として建立した。平成三年再建立した際、以前からあった小型の「獣魂碑」は生出宮司によりお祓したあと、富良野市石材店により処分した。
村長金子浩の碑(上富良野町墓地)
昭和四十年十一月二十一日建立。墓地の一番高い所にあって碑の表面(浩徳院殿傑心天英大居士)とある。明治四十三年百二十八町歩の未開地を購入、本町金子農場の経営に当る。その間幾多の公職を歴任、昭和十年衆望を担って村長に就任、その職にあること十一年間、時恰も終戦に伴い、その職並に一切の公職を辞す。其後、蟄居三年遂に病床に臥し昭和二十四年十一月二十一日、六十四才を一期として逝く。
歴住塔法光法(大雄寺)
昭和五十七年七月に大雄寺歴代住職の供養のため創立し、創立一世機外全應大和尚・大雄院真戒如禅法尼の刻字がある。
小動物鎮魂碑(上富良野町墓地)
焼却処理した小動物の霊を慰めるために、昭和六十年十月吉日建立する。
戦死紀念碑(明憲寺)
高松高次郎が、明治三十七年十二月二十八日、日露戦争で負傷し野戦病院から大阪陸軍予備病院に転院したが享年二十二才で他界した。供養として大正五年建立したが、平成元年九月道路工事の折、明憲寺の鐘突き堂の基礎部分に供養して埋設処分したため現在は無い。
(大森金男記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉