地蔵・大師・水天宮
弘法大師座像(里仁津郷)
昭和二十六年御堂改築、国道二三七号と、美馬牛ルベシベ道路交差地点の高地十字路内に建立される。津郷農事組合の女性だけで毎年持ち回りでお参りしている。赤い帽子にチャンチャンコを纏っている。
虚空蔵菩薩(東中十一西)
明治時代建立したもの。深山峠への集結依頼があったが、異論があったため、実広清一ほか五戸で祭っている。
新四国八十八カ所十二番で、昔から神木の付近では火事や事故が小難ですんだ。
弘法大師座像(江花一)
大正二年建立されたが、弘法大師像は昭和四十七年に深山峠八十八カ所四番に移設した。
光明真言百万返(東中市街)
大正二年建立する。「南無阿弥陀仏百万返」と彫った四角石柱である。
地蔵尊(東中市街)
大正六年十一月九日建立する。利益人天所願成就、蝮音禅童子・千手観世音菩薩(彩色)昭和四十二年八月二十七日水田圃場整備の折り移設する。
延命地蔵尊(深山峠、元江花二南)
大正十一年十一月吉日、新田中に向う西側丘の上に建立されていたが、昭和四十二年五月二十二日深山峠に移設された。右隣に交通安全石柱あり。
水天宮(東中)
大正十五年四月創祀する。東中土功組合の人々は水不足になると、この水門に来て雨乞い祈願した。
この竜神の尾と目には金が嵌められていたが盗まれて、その後水害で流されたが不思議に発見されない。
大師堂(上富良野墓地)
昭和三十一年建立する、中心に、大きな御大典記念、岩屋山御分身、弘法大師百体奉安碑や、左に昭和十二年十月二十二日建立の日支事変の武運長久を祈った大師像があり右に観音地蔵が二体ある。
無縁地蔵・六地蔵(上富良野墓地)
昭和八年に建立される、杉山キクノ(七十九歳)の寄進で、墓地には当時埋葬されて現在は殆どお参りされていない無縁仏がかなりあり、これらの供養のため建立される。
地蔵尊(大雄寺)
昭和十五年九月(紀元二六〇〇年)に建立する。
水難避として町内会が建立したもので、子供の水死者が多かったので、その供養と事故防止のため祈願する。
交通安全祈願地蔵尊(深山峠)
昭和四十五年五月二十二日建立する。国道二三七号の交通の要所に、交通安全を祈念して建立した。
諸龍地蔵像(深山峠)
昭和四十八年建立したもので、杉山芳太郎が、自分の母が刻んだ小地蔵が破損したため、自分で刻み作り替えたものである。
霊場の碑・霊場地蔵尊(深山峠)
霊場の碑は昭和四十八年十月十日に建立されたものだが、平成三年十月十日に深山峠への移駐完結地蔵祭が行なわれた。
深山峠霊場奉替会、深山峠新四国八十八カ所霊場移駐期成会、深山峠観光開発振興会の多く方々の努力により移設される。
明治四十四年に当時上富良野村弘照寺開基住職岩田実乗師、下富良野村富良野寺開基住職宮田俊人師、美瑛村光明寺開基住職小倉秀淳師が発願者となり、富良野市街に一番の御本尊を安置し鳥沼、中富良野、上富良野、美馬牛、美瑛村更に旭川に第八十八番御本尊を安置して富良野沿線新八十八カ所として開創された。
その後二世、三世時代となり各部落の祀堂を守る者も無くなったため、昭和四十七年三月七日に深山峠新四国八十八カ所霊場移駐期成会を結成し、富良野沿線に点在する第一番からの札所地蔵尊を深山峠に移設集結建立し、深山峠霊場を造成することとし、昭和四十八年二月七日に移駐趣意書を配布して、同年八月二十四日地蔵安置作業を開始、同二十七日開限の儀、同三十一日霊場開きを行った。以来四年余りで全部の移駐を完了した。台石運搬は自衛隊三〇八地区施設隊の協力による。
水天宮(日新ダム)
ダムは昭和四十一年八月二十六日起工式を行い、昭和五十七年十月二十六日完工した。
小さいが手の込んだ社殿である。
大師堂(元島津)
昭和二十四年建立する。山田タカの信仰により、座敷に堂の玄関を設け寺院同様の施設をして付近の信者が毎年四月二十一日と十一月二十一日に集まって祭りをしていたが、昭和五十九年に中富良野弘照寺に移した。
(大森金男記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉