寺 院
本町民の大部分は仏教信者である。堂宇は何れも寺院によるものであったが、近代的な建造物に変りつつある。仏教信徒のうち最も多くの人が信仰しているのは、浄土真宗(東本願寺派・西本願寺派・高田派・興正派)で本尊は阿弥陀如来である。次いで曹洞宗(永平寺派で本尊は釈迦牟尼佛である。
専誠寺
明治三十年六月五日創祀、昭和二十五年九月十日現在地の栄町三丁目に移転新築する。平成六年に庫裡、骨堂を鉄骨コンクリート造にて再新築する。
開基住職島 義空師(愛知県三河より三重団体の地に派遣される)、第二代住職明治三十七年六月内田是歪師、第三代住職内田是隆師、第四代住職増田義秀師、第五代住職増田修誠(修一)師は現在。
明治三十年六月五日に真宗高田派専誠寺説教所として、西二線北二十八号に草小屋を建て開教。
明治三十年設立以来火葬管理を命ぜられていて住職がその任に当たっていた。
大正十五年五月二十四日に十勝岳爆発泥流災害に遭う。昭和二十四年十一月二十二日に「専誠寺事件」が発生し住職内田是隆と坊守てつ、が殺害されたうえ放火に遭い本堂、住宅共に焼失する。大正二年十二月二十六日に寺号公称(専誠寺)となる。
明憲寺
明治三十五年五月開基、明治四十二年十一月二十三日現在地に本堂改築移転、大正七年に梵鐘と梵楼を設置する。昭和三十一年八月末に本堂庫裡再建立。
開基住職、近藤義憲師(愛知県東加茂郡旭村出身)、第二代住職近藤信行師、第三代住職近藤義信師現在。明治三十五年五月大谷派真宗説教所として旧市街地に創立する。明治四十年九月十一日寺号公称「明憲寺」とする。所在地、西町一丁目
大雄寺
明治四十年十月創立、明治四十二年十月三十日に本堂(三十坪、栄町の長谷鉄工場付近)竣工し入仏式を行う。寺号公称のため大正六年十一月二十五日に入札売却し、現在地に大正十二年四月二十二日に本堂再建立し入仏式、昭和二十四年八月納骨堂を建立。昭和五十三年十月に近代的な本堂を再新築する。
創立者中村功雄、明治四十年四月より布教に着手し、大正二年十二月二十五日説教所設置許可を受ける。
大正六年八月三十一日に滝本全應師(旧姓大塚、福井県今立郡眞味野村出身、大正四年に渡道し落合に入地する)が住職を引継ぐ。第二世住職滝本幸朗、第三世住職滝本良幸現在。
明治四十年十月当初、曹洞宗永平寺派説教所として開設。大正七年十月二十九日に寺号公称(条件がありその一つに敷地が十戸分以上とし)「大雄寺」と号す。大正十二年建築の本堂では村議会が数回開かれた。
聞信寺
明治四十二年仮説説教所開設する。大正五年五月十一日真宗本願寺派説教所の設立が認可され創立する。大正十三年六月五日堂宇落成する、納骨堂は昭和二十五年七月に建立する。
開基住職門上暗雲師、二代住職門上浄照師(岐阜県郡上郡川合村出身)、明治三十九年五月本山の命により札幌別院に在勤、次いで明治四十一年教覚寺(中富良野西中)の第一世住職となり、聞信寺を創立し父親の暗雲を開基住職として郷里より招く。大正五年一月まで在職する。昭和三十二年没す。三代住職門上美義師(昭和二十二年一月七日大分県より婿入りする)四代住職門上誓明師(平成八年一月十日就任現在)。
大正八年八月十八日寺号公称として、「聞信寺」と号する。所在地、本町二丁目。
聖徳太子堂
昭和四十一年七月一日落成、所在地、中町三丁目大雄寺敷地で技能の神。
源照庵(寺)
明治三十八年三月開所、当所東中市街にあったが、昭和十五年上富良野墓地に移設する。昭和三十四年寄谷源随病没後、山本了照が引継ぎしたが昭和五十六年頃山本住職が転出したため真言宗源照庵は閉庵(寺)となる。
専妙寺
明治四十一年春開設開基、真宗興正派、東六線北二十号に大正四年四月柾葺きの堂宇を建立、大正八年に東九線北十九号に移転する。昭和二十一年六月寺号公称により「専妙寺」となる。
当初の布教師は後藤、昭和三十九年七月三十一日長尾乗教住職老齢、病弱と後継者不在により廃寺とする。
大昭寺
昭和三年創立、昭和二十六年本堂建立する。
真言宗醍醐派で本尊は不動明王である。住職西條宥伝(春吉)は昭和三十五年八十歳でもスクーターに乗り托鉢を続けていた。昭和四十一年十一月西條宥伝老齢により閉所解散となる。
信教寺
観世音菩薩で昭和三十二年九月創立する。開基者内村信之、平成八年四月十一日を以て廃寺となる。
法華寺
大正初期から草葺の寺院で住職藤浦師、師は祈祷もしていた、所在地は斜線二十三号と二十四号の中間、大正十年頃寺を新築するも翌日の大風で倒壊する。住職が荒瀬師に引継ぎされたが昭和十三年頃、住職病弱で廃寺となる。富原、黄田義栄氏の話
(大森金男記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉