郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

衛生活動と避病院

戸長役場ができた明治三十三年から、役場の仕事として衛生事務は最も重要な施策となっていた。
国は明治三十年に伝染病予防法を公布し、国民を疫病から守る政策がとられていた。
本村では、昭和三十二年度の予算に衛生費と村医費を合わせると、小学校費に次ぎ歳出総額の三十九%が計上されていることでも明らかである。
伝染病を防ぐには、病気の原因である細菌をまきちらす患者を隔離し住居なども消毒する、それを運ぶ昆虫や水、食物など、衛生思想の向上、病気に罹らない免疫力をつけることが行政の使命となっていた。
その最も顕著なのは大正初期頃から義務化した種痘(痘瘡)を、幼児、児童を対象に実施されている。昭和に入ってからは、腸チブス、赤痢などの予防接種が行われた。中でも種痘を拒む者には罰金を科すと言う厳しいものであった。
又、衛生思想を高める一環として、毎年市街地区の住居の清掃検査を春、秋二回終戦後暫くまで行っていた。この頃になると好天日にはどこの家からも畳が表通りまで並べられ、陽に当ててほこりを落とす音が街中に響いていた。その実施を検査し、優良の家には白い検査証が貼られ、不良の家には赤紙が貼られるので無理をしても清掃を行ったのである。
法定伝染病にはコレラ、赤痢、腸チブス、痘瘡などが指定されており、この疾病は医師の届出義務とされ、警察と役場は直ちに患者を隔離し、その住居、学校などを警察官立会の下で、役場職員が背負式噴霧器で消毒をした。患者を収容する施設を大正十四年伝染病隔離病舎(通称避病院と言った)が建設(町大町ハイムいしずえの場所)されたが、村民の衛生観念が徹底してか、幸いにも伝染病の発症率が少なく空家となることが多かったので「お化け屋敷」とか「あそこへ入ったら帰られない」と言ううわさが戦時中は囁かれていたようである。
戦後は復員、海外引揚者の緊急住宅に改良活用された。昭和三十四年に町立病院に併設したが、現在は富良野協会病院と収容委託制に変えられて町立病院併設を廃止したのである。
戦前の衛生行政は、警察機関の監督下にあったため、医師の届出も患者の隔離、住居消毒、清掃検査も警察官の立会の下で執行されたが、戦後は指導機関として保健所が行うことになった。
(久保栄司記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉