中学校
一、義務制中学校の誕生
戦後教育は混乱と窮乏の中、文部省は戦時全体主義体制から平和民主主義体制へ昭和二十年に切り替えるという「新日本の教育方針」(九月十五日)を発表、内容は簡単な前文と緊急措置を示したもので「……戦争終結に関する大詔の趣旨を奉戴して世界平和と人類の福祉に貢献すべき新日本の建設に資するため、従来の戦争遂行のための教育施策を一掃して、文化国家、道義国家建設のための施策を推し進め……」との方針が示され、続いて九月二十日に、いわゆる墨塗り教科書≠フ指示である「教科用図書取扱いに関する件」や、十二月三十一日の「修身、歴史、地理教育停止に関する件」で三教科の授業中止指示で昭和二十年が終わった。翌二十一年第一次米国視察団が来日し、四月七日付けで報告書にまとめられ、これが新教育の発足に大きな関わりを持つことになる。
新しい学校制度として、六・三・三・四制、特に六・三の義務制とその無月謝、男女共学制は、戦後窮乏の時であるが、日本再建の道は教育にあるという見地にたって、実施の結論となった。総理大臣の諮問機関である教育刷新委員会がこの原案を決定したのが昭和二十一年十月十六日、次いで十一月二十九日に教育基本法の要綱を決定し、更に教育刷新委員会は十二月にはこれらを含む教育全般の改革案の建議を行い、これを受けて政府が新学制の実施方針を決定、小中学校は二十二年度、高等学校は二十三年度、大学は二十四年度から実施と発表したのが昭和二十二年二月である。続いて政府は、教育基本法案、学校教育法案の閣議決定、三月末には二法の公布となり、四月一日から六・三制の義務化実施となり、新制中学校はここに誕生した。
二、上富良野での中学校開校
上富良野村としてもこの施策に対応する為に、各小学校校下から準備委員を選衡し、昭和二十二年二月、村役場において第一回六・三制準備委員会が開催された。以後、数次にわたって準備委員会が開かれた結果、中学校は村内一校とし、東中には生徒数や地域性から分校を設置することに決定、取り敢えず上富良野中学校を上富良野小学校に、東中分校を東中小学校に併置して開校する運びとなった。
五月に入って梅田鉄次郎校長始め本校分校教員も発令になり、当面の開校準備が進む中、昭和二十二年五月三十日午前十時、上富良野小学校屋内運動場において開校式を挙げた。このように戦後の窮乏の中で、慌ただしい新制中学校の発足であったが、その後、校地の決定に始まり校舎の建設、また生徒遠距離通学問題解決のため寄宿寮の設置や里仁小学校校下生徒の美瑛第四中学校へ委託通学、そして江幌、日新分校設置と東中分校の独立、次いで江幌、日新分校独立など、実態や要望に対応した変革を重ねて行くこととなる。
(1) 上富良野中学校
昭和二十二年四月一日、学制改革よる上富良野村立上富良野中学校が設置された。
通学区域は東中地域を除く上富良野村一円、校舎は小学校正面校舎九教室を借用し、八学級生徒数四百七十五名、梅田鉄次郎校長以下教員十四名で、昭和二十二年五月三十日開校式を挙げ、翌日から授業が開始された。
校地は当時、開放されていた島津農場区域で引き続き競馬場として使われていた上富良野村字富良野原野一〇八六番地の長方形一万四百七十九坪で、十勝岳連峰を望む風光佳麗の場所(現在地)に定められた。
校舎の建築
・昭和二十四年四月三十日、校舎第一期工事落成。(教室八、生徒便所)六学級移転。
・昭和二十五年五月二十六日、校舎第二期工事落成。(教室四、音楽・職員室、用務員室、宿直室、水飲場)これに先立ち一月二十三日、三学期になり壁工事など一部を残し、落成を待たずに残りの六学級が小学校から移転し、この時漸く小学校校舎間借りの併置状態が解消された。
・昭和二十五年十二月、校舎第三期工事で屋内体育館工事の(二分の一)完成するも昭和二十九年危険校舎で解体。
・昭和二十五年十月十八日、校舎第四期工事完成。(教室二、職員室、校長室、玄関)
・昭和三十三年九月二十三日、校舎第五期工事体育館完成。
・昭和三十四年五月二十九日、グランド整地完成。(昭和二十六、二十七、二十八年の生徒と校下青年団奉仕出動の整地作業を経て、自衛隊施設隊によって完成された)
・昭和三十五年九月十八日、校舎第六期工事落成。(教室四、玄関、他管理関係六)
・昭和三十八年十月四日、校舎第七期工事落成。(特別教室九、準備室六、渡り廊下)
以上、開校以来十六年余を経てようやく、一応の施設内容を整えたが、財政の苦しい中に、夫れ夫れ関係者の苦労努力があったことは言うまでもない。
分校設置
・昭和二十四年一月二十日、里仁地区の生徒二十九名美瑛第四中学校に委託通学のため転校。
・昭和二十五年九月三十日、東中分校が上富良野町立東中中学校として独立認可される。
・昭和二十五年十月十八日、江幌分校開校し、生徒七十二名転校。
・昭和二十五年十月十九日、日新分校開校し、生徒五十四名転校。
・昭和二十七年四月一日、江幌、日新両分校が独立しそれぞれ江幌中学校、日新中学校となる。
・昭和三十九年四月一日に江幌中学校を、昭和四十一年四月一日には日新中学校を統合し現在に至る。
(2) 東中中学校
昭和二十二年四月学制が改革され、上富良野村では二月にそれに対応する為に設けられた六、三制準備委員会に、東中から西谷勝夫、林 覚、鈴木 信の三氏が選ばれ参画した。
そして、上富良野村内では上富良野中学校一校とし、東中には生徒数が多いことや地域性を考慮して東申分校を設置することに決定し、校舎が新築されるまで、東中小学校に併置して開校する運びとなった。昭和二十二年五月三十日、開校式を上富良野小学校屋内運動場で行い、翌三十一日から授業を開始した。学級数は三、生徒数は百三十七名で、教員は安井 洵、新井 稔、山岸久子であった。
昭和二十二年度から数次にわたって開かれた準備委員会で、校舎の建築並びに学校敷地の決定について協議を重ね、校舎建築内容については決定を見たが、敷地については、年度内に決定を見るに至らなかった。越えて昭和二十三年五月二十二日、松浦義雄の奔走によって、漸く東八線北十八号の二町歩に落ち着き決定を見るにいたった。
昭和二十五年九月三十日、上富良野村立東中中学校として独立し、十月三十一日に矢田部文六初代校長が着任した。
校舎の建築
・昭和二十四年十二月三十一日、校舎第一次工事竣工。(普通教室三、職員室、当直室、使丁室、炊事場、便所、総坪数一六五坪)翌年一月十九日新校舎に移転した。
・昭和二十五年十二月三十日、校舎第二次竣工。(普通教室三、生徒昇降口、坪数一〇二坪)
・昭和三十一年九月二十五目、木造編板式体育館竣工。落成式を行う。
・昭和三十七年十二月三日、特別教室、校具室、宿直室竣工。
(3) 江幌中学校
新学制実施で義務制中学校は村一校として発足したが、遠距離通学による生徒の心身の疲労、それに伴う生活や学習意欲の減退と不安、経済的理由、特に冬期間の通学困難などが、開校当初からの課題となっていた。昭和二十三年に至り、ときの村長田中勝次郎に校下部落民百四十五名が、前述の地理的事情を述べて、分校設立について請願した。
村では上富良野中学校下の遠距離通学生徒の困難解消のため、これらの地区に分校設置を定め、昭和二十五年十月十八日、上富良野中学校江幌分校を上富良野町西九線北二十九号江幌小学校舎内に設立発足した。
続いて昭和二十七年四月一目、独立して上富良野町立江幌中学校となり校長は小、中学校兼務の併置校となった。二学級、生徒数八十二名。
昭和三十九年三月三十一日、上富良野中学校へ統合し廃校となる。三学級、生徒数七十名であった。
(4) 日新中学校
六・三制が施行になり中学校が義務制となったが日新、清富地区の生徒は遠距離のため通学が困難なところから分校設立の議がおこり、日新、清富両校下協力して要請していたが、上富良野中学校日新分校を設立することとなり、日新小学校舎に専用校舎五十一坪を併設しその完工をまって、昭和二十五年十月十九日発足した。通学区域は日新、清富両小学校々下である。
続いて昭和二十七年四月一日、独立して上富良野町立日新中学校となり、校長は小中兼務の併置校となった。二学級、六十一名。
昭和四十一年三月三十一日、上富良野中学校へ統合し廃校となる。二学級、生徒数三十名であった。
(中尾之弘記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉