郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

寺小屋・簡易教育所

一、寺小屋と簡易教育所の開設
開拓期、移住者は開拓の苦労の中で先ず、祖先、神仏の祭祀と併せて取り組んだのは、子弟の教育であった。
上富良野に於ける子弟教育の始まりは、三重団体入植の翌年である明治三十一年の冬季農閑期に、専誠寺住職島 義空が、その説教所において寺小屋的教育を行ったのが始まりである。一方、東中では明治三十二年三月に、雑貨店を開業した神田和蔵が、自分の所有する三間×五間の小屋で教育を開始したが、これは、みずから簡易教育所と称していた。
やがて三十二年末に、上富良野他三ケ所に簡易教育所を設置し、逐次、各地域有志者の寄附に成る校舎において教授を始めるに至った。しかし、当初は未だ公的な手続きで開設したものでなく、教場の民家を借りたり、或いは草葺き小屋を建ててこれに充て、また教員も地方の篤志者や僧侶に、少額の報酬でこれを託し、僅かに実施したものに過ぎなかった。
このことから、子弟教育は、スタートから既に寺小屋的教育から脱却し、公的簡易教育所の開設を目指していたものと思われる。
二、簡易教育所の認可と明治の教育制度
明治三十三年四月二日、道庁から正式な認可を得た教育所は次の四ケ所である。
・上富良野簡易教育所(後の創成小学校)
・東中富良野簡易教育所(現東中小学校)
・西中富良野簡易教育所(現中富良野町)
・下富良野簡易教育所(現富良野市)
『当時の教育制度の概要』
明治政府は、明治二年小学校の設置を命じ、以来度々の改変を経て、明治十九年に「小学校令」を公布、尋常科四年、高等科四年とし、尋常科のみを義務教育とした。同時に「小学簡易科要領」を制定した。北海道でも、これに基づき北海道庁令「小学校規則及び小学簡易規則」を定めたが、内容は尋常小学校では修身・読書・作文・習字・算術・体操・実業演習の七教科を四ケ年で履修、高等小学校では修身・読書・作文・習字・算術・地理・歴史・理科・体操・実業演習の十教科(英語を加え十一教科と出来る)を四ケ年で履修させるとしている。
小学校簡易科は、読書・作文・習字・算術・実業演習を三ケ年でというものだが、北海道は開拓地で歴史も浅く、この制度をそのまま実施することは困難だった。このために、明治二十八年に簡易科の許容範囲を広げて「小学校修業限指定標準」を制定、明治三十一年には更に運用基準を緩和した「簡易教育規定」が定められた。
道庁では、その後も規定緩和を行っているが、国では教育の充実向上の為に、度々「小学校令」の拡充改正を行い、明治四十年には、尋常小学校六年の義務教育の制度の確立と、教科書の国定化が進められた。このように国の施策を、道庁がより現実に合った方策を取ることで、結果として開拓の最前線に至る迄、急速に公教育の場を普及させ、教育内容を充実させることになったのである。
(中尾之弘記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉