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自衛隊演習場と駐屯地

自衛隊の沿革
昭和二十五年(一九五〇年)六月二十五日、朝鮮戦争勃発、戦争が激化し在日米軍の大部分が朝鮮に出動した。その空自を埋めるため同年七月八日、連合軍事司令官マッカーサー元師の吉田茂首相に対する書簡に基づき、わが国の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するのに必要な限度内で警察力を補うことを目的として、昭和二十五年八月十日、警察予備隊令が公布され、即日施行、定員七万五千人の警察予備隊が発足した。
昭和二十七年四月、海上保安庁の業務を補足するため、海上警備隊が定員六千名で発足、同年十月十五日、警察予備隊と海上警備隊が保安庁のもとに保安隊となり、昭和二十九年七月一日、航空部隊を加えて陸上・海上・航空の三機能が独立し、自衛隊となった。
演習場と駐屯地
昭和二十五年、警察予備隊林敬三総隊総監が、本州における富士演習場に相当する演習地を北海道にほしいという希望から、旭川二帯広を航空視察をしたとき、富士の裾野に似る、十勝岳山麓に広大な未開地を発見した。翌二十六年十月、外国武官を伴い来町、東中奥の五一七高地から展望できる一帯を調査したのが町における演習地問題の発端である。
演習場の誘致運動は昭和二十六年末から積極的に開始された。演習地設置の要件として、防風林を国費をもって設置、水源涵養林の保障存置、なおこれと併せて本町に駐屯地の設置等が挙げられた。ほか、河川護岸工事、農地を必要とする場合の代替地の確保、道路整備、旱天時の水田かん漑のための貯水池の新設等設置要件が具体化した。誘致については町民も賛否両論があり、これらに対する抗議については町外からは、かなり激しいもがあった。昭和二十八年十月十五日、日本共産党富良野地区委員会が抗議文書を町に提出、その内容は極めてきびしく、又その頃、脅迫的投書も舞いこんだ。しかし町の立場はゆるぐことなく、昭和二十九年三月十一日、町の各機関代表が一堂に会し、既に設置されている美幌、名寄、遠軽等の設置後における状況視察の結果を検討した。各班とも「町にプラスするもの大なり」との結論となり、「大局的見地から誘致すべし」という主張が優勢を示した中で、農民同盟代表だけが態度を保留した。しかし絶対反対というものではなかった。
その後折衝も急ピッチに進み種々難問題も妥決し、昭和二十九年五月十四日、駐屯地敷地三十三ヘクタールの売渡決定、同年九月五日地鎮祭、昭和三十年四月、融雪とともに工事を再開、同年八月十五日に落成した。間もなく第二特科連隊、第二戦車大隊、業務隊の先発要員が到着、九月一日に駐屯地が開庁され、第二特科連隊が旭川から移駐した。これに伴ない業務隊、会計隊、基地通信隊、警務派遣隊、調査派遣隊が移駐、九月九日第二戦車大隊が多寄から移監し、駐屯部隊の編成が完結した。
その後、師団の改編等に伴い、駐屯部隊の編制替えが有り、昭和三十七年三月、第二特科連隊が旭川へ移駐、替って第四特科群が東千歳から移駐し、主力部隊が変った。その後も方面隊、師団等の改編に伴い、駐屯部隊も数次の改廃、移動を経て現在に致っている。
昭和二十九年末までに演習場三〇〇〇ヘクタールの売渡決定、駐屯地開庁前の昭和三十年六月二十九日、演習場の射場開きに初代駐屯地司令・鴨川一佐と海江田町長が一緒に火砲の拉縄(りゅうじょ)を握って第一発を発射した。その後の昭和三十四年三月、中富良野、富良野地域にかけて五〇〇ヘクタールが拡張された。
自衛隊と地元の関係
駐屯地の開庁により、移駐した隊員はもち論、その家族に対し物資を供給する人々が必要となり、上富良野町の人口は一気に三千数百人が増加した。市街地は急速に発展、このことが料飲店の増加だけでなく。商店他一般産業の振興を促し街並に活気がみなぎった。
自衛隊は部外工事、災害派遣に多数の成果を残してきている。また、駐屯地を解放しての運動会、雪まつり、各種競技会。文化的行事の参加及び支援は町の文化・スポーツの振興や町民融和に大きな役割を果たしてきている。更に音楽隊の各市町村行事における演奏、冬季オリンピック、冬季ワールドカップの支援、社会福祉事業への参加等、地域に密着した行動は上富良野町はもとより沿線市町村に大きな実績を残している。北海道内外からの出身者が、本町ならびに沿線市町村に定住することが極めて多く、住民の建築戸数は年々増加、地域の振興発展に貢献しているほか、自衛隊の退職者が行政、住民会、各種団体等の要幟にあって活躍しているのも本町の特性といえよう。
(前川昌之記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉