郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

食糧事務所

(一) 無検査時代
江戸時代において、米は封建体制下の基本財産であった。各藩の施策として、年貢米受納に際し、米穀の品位、容量、包装について審査を行っていた。
徳川幕府が崩壊し、明治六年の税制改革で税を金納制に移行、米穀に関する取締りがなく品質、包装は粗悪となり、道は農産物の検査を行う同業組合の組織化を奨励して品質の改善を図った。
(二) 派出所沿革の概要
派出所の沿革については、開基五十周年記念誌原稿に記載があるので、原文のまま掲載する。ただし、所在地等住所表示は現在名に書き替えてある。
大正四年上富良野村雑穀商組合の請願に依り雑穀出張所を新設、検査事業は北海道雑穀商同業組合之を掌り主として雑穀の移輸出検査を施行、大正五年秋より検査をなすに至れり。斯くて大正八年四月全道を挙げて道営検査に移管さるるに至り、北海道農産物検査所上富良野村派出所と改称す。
それまで現今の中町一丁目(集乳所〜上富良野ハイヤー)にありたる検査所を栄町三丁目(中堀〜渋江医院)の位置に移す。同時に各部落一箇所の駐在所を設置し、生産検査を擔當せしめたり。當時の嘱託検査員實に十二名の多数を算せり。
而して検査上の便宜を図りたるも當時の検査事業は頗(すこぶる)幼稚にして不備の点多く検査不統一にして非難の聲少からざりしを以て集合検査制を採用し、東中駐在所(六線二十号)、三重駐在所(旧国道二八号)を置き市街地派出所と連絡を密にして検査の統一を図り農産物の品位竝びに聲價の向上を見るに至れり。
大正十年十月従来の検査場所にては不便多かりしため現今の栄町二丁目(桐野歯科〜高等家政女学校〜鈴木弥江子様宅)位置に新築移転す。
十勝嶽爆発泥流の出現により農検第二駐在所も泥土の偉力に脆くも一切を流失せり。只勤務者大川藤四郎技手夫妻僅かに身を以て逃れ得たる。斯くて流失せる監在所はその侭消滅して復活を見ず。
昭和弐年六月部落氏の懇請により第九の復活を見たるも翌参年八月再び派出所に併合、東中駐在所一箇所を残すに至れり。
昭和九年更に検査事務所を現今の中町一丁目松田様宅位置に當時としては数少ない洋館建風な窓枠、二階に大会議室付を新築移転し検査所としての体様を具備するに至れり。
(三)国営検査時代
昭和十七年米麦の国営検査が実現、日支事変が大東亜戦争に拡大、生産資材、労働力の不足、増産は思うようにいかず、一方需要は増大し食糧事情は年々苦しくなってきた。昭和十四年に朝鮮だけでなく西日本でも大旱魃になって大減収になった。食糧の需給関係が非常に逼ぱく、食糧の一部統制から全面統制に切り換える必要に迫られる。
昭和十七年二月食管法が制定、十二月二十四日から米麦の国営検査が実現することになった。名称も北海道食糧検査所上富良野村出張所に改称し昭和二十一年までこれが続いた。
(四)食糧検査所が合体し新食糧事務所に
昭和二十一年に食糧管理強化計画が出され、二十二年四月いも類の政府買入に伴い、米麦検査令が主要食糧検査令に発展、二十二年に食糧管理機構の整備強化を図るため、当時の国の機関である食糧事務所と食糧検査所が合体、現在の食糧事務所が誕生した。合体に伴ってその他の農産物の検査は、道府県が直営で実施した。一部のものを除いては道府県令に基づく道府県の検査であるが、道府県からの委託によって、その検査の実務を知事の指揮監督の下に行うことになった。
二十三年六月には澱粉、雑穀、二十五年五月菜種の政府買入が行われる。
二十六年農産物の検査法が制定された背景には、統制解除になったものについての検査の根拠法規を明確にする必要があったからだ。
三十五年八月東中駐在所は出張所として昇格旭川支所直轄となる。
四十年、当時の位置では交通車輌が頻繁でバス路線でもあり、又雨天検査場所もなかったため、栄町一丁日大倉歯科医院隣地に新築移転する。
(五)二段階制への移行
食糧事務所の組織は、本所、支所、出張所の三段階になっていた。北海道のみは出張所の下に駐在所が置かれることもあったが、これを二段階制移行で出張所はすべて支所に吸収統合することとなる。例外的に当分の間分室の設置が認められた。
四十八年九月一日、上富良野出張所と東中出張所が統合し上富良野分室となる。更に五十六年四月一日分室を廃し富良野支所直轄となる。上富良野町開基百年の現在では一般農産物の検査は所在地富原の検査場所一カ所となっている。
(六)食糧事務所東中
雑穀商同業組合の検査が大正八年四月に道営検査に移管されると同時に、北海道農産物検査所上富良野村派出所と改称した、村内嘱託検査員十二名の内、東中に四駐在所を置く。当時の検査事業は不備な点が多く検査不統一の声が少なくなかったため、集合検査制を採用し、翌九年これらの駐在所を廃して新に東六線二十号に設立する。
昭和十七年米麦の国営検査が実施され、戦争が拡大するにつれて、生産資材や労働力の不足が生じて、食糧事情は年々苦しくなっていった。
この年の七月に駐在所は廃止されたが、戦後の二十五年九月に東中市街に駐在所が復活した。この後三十五年八月には農林省北海道食糧事務所東中出張所に昇格している。
しかし、四十八年九月食糧事務所の組織再編整備に基き、上富良野分室に統合され変遷の幕は閉じられた。
取材協力 村岡十二夫氏(大森金男記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉