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消防組活動

上富良野に開拓の鍬がおろされてから十年余、原始林を切り開き抜根焼却するという作業の連続で、ともなって野火や山家事の発生があり、また入植戸数の増加や、市街地の形成から消防機関の必要性が生じていた。明治四十四年、有志の尽力で初めて私設上富良野消防組が創設され、翌明治四十五年二月公設消防組設立となった。また東中には、昭和三年七月に私設東中消防組が創設されたが、昭和十三年十月公設東中消防組として認可された。
その後、国家総動員法、防空法、警防団令の交布にともない勅令により消防組が廃止となり、昭和十四年四月一日上富良野警防団及び東中警防団が誕生し、昭和十六年四月一日には、上富良野警防団、東中警防団が合併し、上富良野警防団となった。
昭和二十三年四月一日、消防組織法が施行されて自治体消防制度の発足に伴い、警防団を廃止し現在の上富良野消防団が生まれたが、火災水難等有事に際して、家業を頼みず出動し身命を賭して人命財産を護り、社会の安全と平和を確保するという消防精神は、私設消防組の時から今も尚、脈々と生きている。
現在は第一分団(中町)・第二分団(東中)第三分団(本部)に組織され、活動している。また、自治体の消防組織機関である消防本部が昭和三十五年四月一目に設置され、広域化により、昭和四十五年十二月一日上川南部消防事務組合が発足して、当町に組合本部と北消防署が置かれ、現在にいたっている。
次に、消防活動の始まりを振り返って、私設・公設消防組と、警防団について概説する。
私設上富良野消防組
私設消防がいつ出来たかについて、昭和十八年金子村長時代に書かれた原稿、上富良野村史の警防の項に次のように書かれている。
「火災水難を直接防除し多数人命財産を確保せんとして挺身する消防組の設置は明治四十四年の事なり。爾来警防団の設置を見るまで、幾多災害に直面して克くその職責に挺身せる消防組には、村民の深く感謝と敬意を表し来れる処なり。勇敢と責任とに懸命の努力をささげたる消防組合員こそ平時に於ける戦士と言うべきことなり。」と。
時に、明治四十四年八月十四日に皇太子殿下が旭川方面より十勝に向かい、上富良野を通過することになり、美馬牛から中富良野までの鉄道沿線警備の大任を消防組が無事果たしたが、それを機に公設認可へむけての運動が促進され、そのためのポンプ他器材設備整備のため、次の様な寄付願が残されている。
寄付願
今回上富良野消防組公設卜相成候ニ付テハ拙者共管有ニ係ル別紙目録ノ物件今般寄付仕度候間御許容有之度此段奉願上候也
明治四十五年二月三日
         空知郡上富良野村字上富良野市街地
               金子庫三外八十九名
               代表者  西川 竹松
上富良野村長 塙 浩気 殿
代表者西川竹松は西川牧場主で、組頭西川竹松、森 伝吉、田村徳一、多湖粂次郎、杉山九一、牧野由蔵、新津 某、末広六兵衛、豊田浜助、松田浅五郎の名がある。また金子庫三が主なる経済上の支持者である。更に引き続いて同年同月二十二日付で同じく金子庫三外九十二名から器具機械購入資金として金九百二十七円十一銭の寄付の願が残されているが、これも公設消防組を組織するに当たって必要な経費を集めたものである。
公設上富良野消防組
明治政府は明治二十七年に「消防組規則」を制定し消防組組織および運営の基準を定め、これを府県知事の管掌とした。府県はその趣旨を徹底させ、消防施設の不足するところは充実を促しながら、消防組規則の趣旨に沿った消防組の設置を申請させてこれを認可する方向をとった。上富良野は明治四十五年二月三日私設消防を僅か一年で、公設消防組として発足したものである。
装備は私設消防組から引き継いだ独逸型ポンプ一台、独逸型堀式腕用ポンプ一台であった。大正五年、七年とガソリンポンプを購入したが、当時のエンジンは始動が悪く、福屋 貢が毎晩試運転したと言う話が残っている。初めて消防ポンプ自動車を購入配置したのは昭和七年であった。
歴代組頭は次の通りである。(分村前の中富良野を含む)
初代組頭 西川 竹松  六代組頭 山本 一郎
二代組頭 下村菊太郎  七代組頭 福家  頁
三代組頭 広浜 伊蔵  八代組頭 西条兵次郎
四代組頭 西川 竹松  九代組頭 吉田吉之輔
五代組頭 住友与兵衛  十代組頭 高畠 正男
上富良野警防団
戦時体制下、時局の緊迫に伴って消防組はその機構はもとより、人員設備を増加して行き、やがて防空問題が起こり民間防空団体として防護団が全国的に結成された。やがて歴史と伝統を持つ消防組と防護団の両者を発展的に解消して新しく強力な警防組織を設けるため、昭和十四年一月二十五日警防団令が公布され、四月一日から施行され、警防団が誕生した。
警防団令第一条でその目的を「警防団ハ防空、水火消防ソノ他ノ警防ニ従事ス」と書かれている。
而して、昭和十六年四月市町村内一円主義の中央方針に則り、東中警防団は合併し団員二百五十名を擁する上富良野警防団となった。
初代警防団長 吉田吉之輔
二代警防団長 高畠 正男
私設東中消防組
「東中は上富良野村内の東南にありて、行政第十一、十二、十三、十四の四部落を一丸として東中と称し、住民組合を組織して四部落一致団結した美風の部落にして、上富良野中の最も優良なる部落なり。
東中市街は同部落の中央に位置し、年と共に人家戸数の増加を見るに至り消防施設の必要を痛感し、時の元老西谷元右ヱ門は松岡岩次、岩田長作、多田儀太郎、玉島梅太郎、青地繁太郎、石田清作、長谷小市、浅田幸太郎、松岡富次、高橋米吉の十氏と計り、昭和三年七月一日東中消防を組織せり。
以後、その存在は漸く部落民の理解する処となり翌昭和四年一月五日東中住民会の定期総会に消防組認知の問題を携えて副組頭岩田長作は会議に臨み、ここに於いて東中私設消防の基礎は出来たるものなり。昭和三年には、顧問西谷元右ヱ門、初代組頭松岡岩次、副組頭岩田長作であった。」(昭和二十七年発行の東中郷土誌より)

昭和五年二月十一日、紀元節の佳日を卜して警察官、村長その他多数有志の臨席のもとに発会式を行ったが、その時以来、百円の助成をうることになった。
初代組頭 松岡 岩次     四代組頭 丸山久作
二代組頭 岩田 長作     五代組頭 福家敏美
三代組頭 林   覚
また、私設の時代から公設の時代に至るまで、東五線北十七号在住の菊川政重が消防に対して熱心な後継者であった。
公設東中消防組
昭和十三年十二月四日、公設消防組の認可を受け纏をつくって消防精神の充実を見せたが、時局は戦時体制となり、警防団令の公布となり、翌十四年三月三十一日をもって消防組は幕を閉じた。
東中警防団
昭和十四年四月一日、東中警防団が組織され上富良野警防団と共に一村二つの警防団が生まれたが、これは道内でも、二カ所と称される珍しい例であった。
初代団長 岩田長作、代理 西谷五一、旗手 高橋重行、二代団長 辻 善一。
昭和十六年四月一日に上富良野警防団と合併している。
(青柳輝義記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉