戦没者は村葬をもって慰霊
明治六年徴兵制度が生れて以来、兵役に服することは男子の本懐とされ、家門の名誉であり、郷土の誇りともてはやされた時代であった。出征兵士は誰もが、断ち難い肉身や親しい友と別れ、住み慣れた郷里を後にし、酷寒吹きすさぶ北辺の地に、炎熱焼けつく南海の孤島に、或いは往けども果てなき荒漠の大陸の戦線で、只々祖国の繁栄と世界の平和を信じ従軍した。
其の中で、戦場の華と散った本町の戦没者二七三名の英霊は、無言の凱旋として村民が迎え、村葬をもって慰霊を行ったのである。
村で最初の戦没者は、明治三十七年十二月二十八日、二百三高地の激戦(日露戦争)で負傷し、陸軍大阪予備病院で戦傷死された高松高次郎(歩兵二等卒、東四線北二十二号)である。
満州事変での昭和七年三月十二日満州国熱河省喜峰口第一関門附近にて壮烈なる死亡を遂げられた長谷義雄(砲兵曹長、市街地)の慰霊を村長が葬儀委員長となり村内各機関団体、有志、小学校高学年児童が参列し、盛大な村葬が上富良野小学校々庭で行われ、その遺影額は終戦時まで小学校屋内運動場の正面右手上部に掲げられてあり、学校教育を通じ「国民皆兵、尽忠報国」など日本精神の発揚に努めていたのである。
昭和十五年頃までの戦没者には村費をもって村中央墓地の一角に碑石を建立し祖国を愛し、護国の柱となって散華した崇高な大志を村民、子孫に遺したいとする感情であったものと思われるが、その後は急を告げる戦況に救国非常体制と化し建立することができなくなったのである。
(久保栄司記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉