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馬に馬籍 軍用鍛練が制度化

馬は開拓初期から入植者の生活物資、開拓資材の輸送、造材や道路開削事業に重要な役割を果たしていた。開拓が進むにつれ農業には馬を欠くことができなくなり、当然農耕に飼い易い馬を手に入れるために苦労した。牛馬商(明治四十三年自由営業禁止、鑑札制度となる)を通じ十勝、釧路方面から改良された馬が移入されるようになり、馬は各農家に一頭は飼われ、多い家では三、四頭もいた。
これは農家はもとより村民にも馬好きが多く、明治末期頃から村祭りの余興には年中行事として競馬が盛んとなった。村民ばかりでなく遠く旭川から十勝までの人が集まるにようになっていた土地柄から、優秀な馬の育成地として認められ、大正八年には上富良野村が軍馬購買地に指定されたのである。
購買地の指定による集散地域は、本村以南の七町村(現在の本町から占冠村までの一市三町一村)であった。
購買検査場が未整備だったこともあり、当日は朝六時からの検査開始に、検査官が宿泊した伊勢屋旅館前(現在と同じ)から延々と馬検場(現在の中央保育所の処)まで、道路に馬が並べられた。ここで一次体格検査をし、合格すると本札が渡され、馬検場に引き入れられて本検査を受けて購買されるのである。ようやく昭和初年、軍馬購買検査場として、五〇頭余を繋留する馬繋場に検疫検査棟を備えた施設が設けられ、以降ここで定期購買が行なわれるようになった。
馬がこのように社会的に重要な役割を占ることから、戸籍と同じように、市町村役場で公簿登録を行う馬籍法が大正一〇年四月施行され、馬の飼育者は出生、死亡、移動(売買)などの届出が義務化され、その事務を処理する馬籍係が設けられていたのである。
昭和一二年の日中戦争突入で軍用資源として馬が戦場に出たが、実戦では馴致調教が充分でなく苦しんだことから、大正一四年軍用資源法が施行され、各農家で飼育している馬の殆どを軍用保護馬に指定し、鍛練をする制度が、役場で実施されることとなった。
指定される軍用保護馬とは、明け三才から六才までの強健な?馬(去勢をした牡)で、村長が村内在郷軍人の中から任命した軍用保護馬鍛練指導員が訓練を受け持った。各行政区毎に設けられた鍛錬場に、定められた鍛練日に飼育農家から馬を集め、訓練をするのである。その中には戸主が出征し留守を守る主婦や老いた両親、母の代りに小学校高学年の少年が一緒になって通って来る者もある。厳しい訓練に耐え一生懸命に大人に負けまいと頑張る姿には胸が熱くなった。それを馬も感じてか、よく馴れているように見えた。
軍用保護馬として鍛練、育成が計られたことで、軍馬購買の開設が多くなる。当時法律で定められた特殊法人の馬匹組合と、軍から委託された軍属の検査官が、合格馬を選び、買上価額を告げ、飼育者が「応諾」をして初めて購買が成立するのである。この額は、当時としては一般的に高価な取引とされ、魅力のあるもので、馬の飼育には一層力が入っていたが、一部では、この馬が居なくなると農耕が出来なくなると困惑する農家もあった。然し承諾しないと非国民といわれては……と応ずる厳しい現実もあった。
これが更に『軍需増強を期し以って聖戦を勝ち抜かん」の号令で、一八年の徴発令による軍用保護馬の殆どが旭川の第七師団の練兵場に集められ、その大部分が戦場に向かったのである。
これらの事務は総て役場の仕事として扱われていたが、終戦を境に消滅することになった。馬籍法は二四年五月に廃止となり、馬籍簿が役場から姿を消したのである。
協力者 加藤 清、平塚 武、岡沢孝春 (久保栄司記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉