村医が任命され村に診療所
気候風土が全く違う人跡未踏の原始の未開地に入った移住者は、連日過酷な労働環境の下で開拓の鍬を振った。食糧の入手もままならず粗食にあまんじ、住いも夜露をしのぐ仮設の掘建小屋で、しかも着のみ着のままの生活が開拓者の厳しい現状であった。
この状況の改善のため、明治政府の北海道開拓政策として、移民の衛生思想の啓発と疫病の治療に当る村医の派遣制度がとられていた。
明治三十年富良野村が誕生し、その翌々年の三十二年二月早くも富良野村村医駒崎政一が任命されたのである。
当時の村医の活動状況を町内古老に尋ねても、誰れもが判らないと言う。明治四十二年発行の上富良野誌によると、村有財産の中に、市街地村医治療所跡家屋一棟を泉川義雄に貸付する、とあるから戸長役場が置かれた(三十二年六月設置)前後に建てられたものと思われる。
この医師の招聘は戸長の仕事としては大変な事であったようで、給与は月額三十円(国補助二十円村費十円、当時の戸長は二十円)の高額を支給していた。この国庫補助制度は四十二年まで続いたが、移住民の増加で民間医療が開設されるようになり廃止され、村内に明治四十三年市街地大通りに島田医院が開業されたのである(大正二年これを引継ぎ飛沢医院が開業した)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉