郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

召集令状は役場の仕事だった

戦前は、国民の三大義務として、斉しく国民に覆わせていた強権制度があった。それは納税と教育と、もう一つは兵役の義務である。
明治六年徴兵令が発布されてから、二十歳に達した男子は総て徴兵検査を行い、兵役に適する強健な青年を甲種、乙種、丙種など等級を設け、常備兵力の強化体制を作っていたのである。
北海道移住者は、明治中期まで兵役を免除されていたが、以降は屯田兵の動員が多く出征し、村内での兵役に服した者は現役兵が殆どで、それも甲種合格となった者の中から村で一人か二人位であった。
こんなことから、昭和初期頃までは、甲種合格となったことを祝福する祝酒や祝い旗が、親戚や近隣の有志から贈られ、門前や屋根の上にのぼりを掲げ、『名誉の家』と褒め讃える風習があった。
この兵役記録を管理する兵籍簿は、終戦直後に国策で行われた戦争記録の一斉処分によって焼却処分されており、その記録を知ることは全くできない。
昭和十二年の蘆溝橋事件に端を発し日中戦争に突入し一挙に国が戦時体制と化し、役場でも軍隊に兵士を送る業務が始まった。これは何と言っても印象が強く、記憶にあるのは『赤紙』の召集令状と日の丸の小旗を振って戦場に送った駅頭の風景だと多くの町民から話を聞くことができた。
召集令状は、旭川の連帯区司令部から発せられ、上川支庁から役場の村長に届けられ、青年団の急便団員二人が組になって本人に手渡すのである。
この令状を託され届けられた当時の状況は、次のようであった。
予め緊急電話が役場兵事係に入り、青年団員の待機を伝えた。殆どが午後九時過ぎの最終列車で来た係官から引渡を受けた後、役場に備付けてある革製の肩掛け令達鞄に公用上富良野村役場と印された御用提灯を提げ深夜の道を行く。寝静まった真夜中の突然の訪問に、届ける者の心境は穏やかではない。
前もって兵事係から心得を知らさられていたが、「お芽でとうございます。召集令状をお届けに参りました」と言うのがやっと……。本人も、家族の誰もが「くるべきものが来たか……」高まる感情をこらえ、「ご苦労さまです。確かにお受けしました」と頭を暫し下げられるのに接し、言いようのない熱い胸を感ずる役割であったと言う。
その日からわずかで入隊である。留守を家族に託し役場から贈られた奉公袋に所定の用具を詰める。
村長の為書に知人や友人の寄せ書きで埋った日の丸を襷にかける。婦人会が家庭を廻って一人ひとりが『武運長久』の願いを込めた糸を固く結び、中に死戦(四銭)を越える五銭玉と、苦戦(九銭)を免れるようにと十銭玉も縫いつけた千人針の布地を身に付けた。
国防服に戦闘帽の村長に付き添われ、村の有志、知人、友人や小学生が並ぶ神社で必勝祈願をした後、『祝出征』ののぼりを先頭に市街大通りを駅まで行進する。駅頭では村民を代表した村長の挨拶に応え、出征兵士から『国を守る熱い決意』が述べられた。白いかっぽう着に国防婦人会と書いた襷姿の婦人や小学生が手に手に日の丸の小旗を振り、バンザイと列車が見えなくなるまで叫ぶ歓呼の声で送ったのである。
この事務は戦争終結の近くまで続いたのである。
その度に村役場の仕事として銃後の務と総ての村民を動員し戦争に向わせ、これに背を向けることを許さなかった時代であった。
協力者 一色 武、幅崎要蔵  (久保栄司記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉