役場で護守した上富良野神社
移住者は、開拓地の郷土形成には、先ず祖先から流れ受け継いできた神道思想の念が何よりも強く、明治三十三年頃から集落の基礎となった三重団体、島津農場、永山農場に住む住民の鎮守としてそれぞれ小地域ながら神社を設け祭礼を行っていた。
このことから郷土の中心となる神社の創祀が盛り上がり明治三十五年、上富良野神社を市街地(現在神社境内)に造営されたのである。このことで「明治四十二年発刊の上富良野志」によると、
神社としては本村内一として其筋の公許を得たるものなし故を以て村社と称するも其実無格社なり将来は公許を得て資格を備ふるものなる可し
と記されてあるように、その後、村社昇格に向け氏子多数の名を連ね、村長、氏子総代から神社創立出願を内務大臣に提出し、大正九年神社創立の許可を得て社殿建立の準備を進め、同年十二年三月、神明造りの神殿、拝殿を竣工、同年八月内務大臣から上富良野神社を村社に列するとの正規の公称が与えられ、この時、神饌幣帛料供進神社にも指定されたのである。
これにより、村が神社を守護することとなり、当然村の予算で神社費用を計上する、その予算の支出第一款が神社費(現行第一款は議会費)で宮司の手当、維持管理費などが支出されることになったのである。
村社となり祭典には内務省から幣帛料が下賜されることとなり、これを奉納する村長が献幣使の役を務める装束で、随員の助役、収入役を従えて、これに続き正装をした学校長、駅長、郵便局長、巡査部長、村会議員などが並び、役場の若手吏員が白装束の白丁となって神殿に奉納する幣帛料と供物の入った辛櫃(かつひつ)を担ぎ、役場から大通りを神社まで行き祭事をするのである。
戦時中神社は村と一体となって戦勝祈願、出征兵士の武運長久祈願に村長が先頭になり、多くの住民学童も参列し、参拝をすることが習いとしていたのである。
これも昭和二十年八月の戦争終結により、宗教の政教分離となり、上富良野神社の一切が村役場から離れ、新たな宗教法人としての上富良野神社となったのである。
協力者 金子全一・平塚武・生出邦子(久保栄司・村岡八郎記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉