富良野村誕生 だが役場は歌志内村に
富良野村は、明治三十年七月一日付で北海道長官の告示により誕生したのである。これは前年の十二月二十五日付で先に殖民地区別選定の測量調査を終えていた、フラノ原野の貸下げ告示が出され、その地域を管轄する役場が必要となったため歌志内村と一緒に村を定め、その役場を歌志内村に設け初代戸長に両村を統轄する加藤尚之が就任したのである。
従って正式な役場の名称は『歌志内村、富良野村組合戸長役場』というのである。
戸長は、官治制度の北海道長官任命で両村から選ばれた総代に諮って両村共通の費用を定め、その実力に応じた負担を賦すことになっていたが、この頃の戸長の権力は相当強かったようで、加藤戸長は管轄の富良野村を初めて巡回視察したのが就任して一年余り経過してからである。
戸長役場の職務は、国政委任事務の遂行が主なもので、掲げると
一、布告、布達ヲ村内ニ示ス事 二、地祖、及諸税ヲ取纏メ上納スル事 三、戸籍ノ事
など十三項目で地域の自治的な職務の規定はまったく無かった。
それにしても住民に布告、布達することはどうしていたのか、又住民が役場に届出をするときはどうしたのかを戸籍を通して調べてみた。
三重団体が明治三十年三月二十六日四日市港を出航して四月三日小樽港に着いた航海中に、船中での出生と死亡の事実が町史に綴られている。明治三十年三月二十九日出生を証する敦賀丸船長が「鶴丸」と名付けた書面がありながら、戸籍ではその伊藤秀吉の弐男鶴丸の届出が五年を経過した明治三十五年四月に届出をして入籍されている。
一方船中で死亡して水葬された久野伝兵衛の女児については、それに当る事項が全くないのである。
当時の戸籍事務の実態を知ることはできないが、開拓初期の不整備な条件の中では止むを得なかったことと思われる。それにしても役場が村内に無かったことが何よりの原因で、歌志内村の役場に届けに行くには一泊とまりで忠別(現旭川市)を経て行かなければならぬ余りにも遠距離だったのである。行政を執り行う担当者が村に不在であるという「無行政村」の声が村民から盛り上り、組合戸長役場を分離した富良野村戸長役場を地元に移設する要望を、管轄する空知支庁に願出すると同時に、上川支庁への管轄編入を図ったのである。
協力者 伊藤 真・立松慎一(久保栄司・三原康敬記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉