富原の開拓
富原を通って東中に向う斜線道路は旧十勝国道として相当古く、現存する古老の中にはこの道路のなかった時代を知る者がいない。
白樺が多く自生するヌッカクシフラヌイ川をガンビ川と呼んでおり、この川に沿っての通路も多く利用されていた。
開拓は先づ山に近い平地に住み始められたのである。今、上等の田となっている地帯はその頃湿地で畑に出来ないから、市街に近い山麓のゆるやかな斜面が注目された。
山の沢地帯や、高台の開拓は大正五年頃からで、欧州大戦で豆が高値となり畑の開墾も進捗した。ところが豆値が安くなると次第に水田地帯の開墾が盛んになっていった。
永山農場
上富良野史によると其の面積三十三戸、永山村の居住者樋口和三郎氏外八名の協同で譲り受け、明治三十二年四月六日移住し開墾に従事した。其の主な人は樋口和三郎、城越源蔵、高松良助、中尾伝七、林甚吉の諸氏である。
右の人々は協同して、水源をホロベツナイ川として、一千余間の潅漑溝の工事をおこない、明治四十二年度より米作を始めた。
福島農場
この農場は東二線から東三線を主体にし、二十二号、二十三号、二十四号附近は、東四線まで斜線に沿って三角形に張り出していた。
明治三十三年頃、滋賀県近江の人で福島五平が鰊の千石場所でつかんだ金を投じ、比布村にいた中沢忠次郎が管理をたのまれ大正八年入地、東三線北二十三号で澱粉工場と農業、商店も経営しながら管理人もしていた。
初期時代の造田に対する鍬下は七年間畑年貢であった。水田として成功した暁には、反当り五斗から六斗、七斗位まであって五百俵の年貢があった。農場の寿命は長く戦前に解放した外は農地改革まで存続していた。
カクヒラ牧場
この牧場は北二十六号のつきあたり右側で現在の日の出の方にまたがっている。しかし富原の方に面積が多い。川田金七の妻の兄、田中長吉が明治三十九年から約三年間管理したが附与検査が受からず引あげた。
この土地の富原寄りの大部分が第一安井農場となる、管理者は阿部寅左工門である。
稲 作
富原での稲作は明治三十七年に有塚利平が水田五反をつくったのが始で、明治四十年に小瀬市五郎、同四十一年に城越源蔵、半田半次と先覚者がつづいている。
人工造林
明治三十七年に河村善次郎が富原の三線二十五号附近に八反歩の落葉松林をつくったのが上富良野における造林の元祖である。
畑 作
豆類の他裸麦、菜種、亜麻、除虫菊等と百姓百色で多くの種類を作り開拓の苦難を乗越えての富原は、自衛隊演習場、多田分屯地、農協の諸施設、農産物検査場、畜産業又は住宅街が出来ている。
水田の圃場整備により地形も大きく様変わりした。
一方ビール原料を耕作しているホップ園は大正十五年十月開設、その独特の栽培は一つの風物詩で、西洋的な景観は今も余り変ってはいない。
(大森金男記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉