江幌の開拓
どの地区も古い人は他界されており、江幌は集団入植は少なく個人入植者が多く、景気の浮沈により人口移動が激しいため開拓当時を伝える資料は何一つとして無いのである。江幌に住む一人として、非常に残念である。昭和四十二年発行の町史と、古老から聞き記憶していることを書いてみよう。
明治三十九年四月に入地した岐阜団体が江幌地区開拓の始祖である。滋賀団体は一部には明治三十六年入植とあるが、この団体は奥野仙蔵が団長で十五名を募り四十年に入植したのである。これを知った兄忠五郎は真狩村に家族を残して単身で滋賀団体に加わった。滋賀団体の入植は明治四十年七月一日である。四十三年には衣川(きぬがわ)団体が入地。以上三団体とカネキチ農場があるだけである。江幌部落は二十七号と二十八号両町道の両側に広がる純畑作地帯で、開拓当時は沢地にはヤチダモ、シナノキ、ハンノキ、高台には松、楢、樺等が繁茂していた。
造材業者が多く入り、男は造材や木挽きに出て働き、女は少ない土地で農業に当たったのである。造材時代も下火になり、開拓作業が進んで附与検査も終わった後に豆景気が訪れた。この頃に個人入地が急激に増えたのである。
次に団体、農場についてであるが、岐阜団体は後藤貞吉を団体長に二十五戸が入地、現江幌小学校の手前にトラシエホロカンベツ川の支流吉富(よしとみ)川があり、養老道路が江幌ダムに向っている。養老という名は岐阜県の養老の滝から来ていると言われる。号では二十六号から二十八号まで、線では西八線から十一線までが岐阜団体の入地域であった。
団体長後藤貞吉は当時の中学(高校)を卒業した逸材であった。私の子供時代の記憶では、後藤宅は当時では珍しい土台付きの立派な住宅であった。夫婦には実子がなく兄姉の子供を育てていた。昭和九年に引越して行ったが子供達の親は十勝在住と聞いていたから、子供達の故郷に帰ったのであろう。氏は小柄な体躯であったが非常に剛健な方で、その上理論家であったと古老から聞いた。
二級町村時代の区画割りで(中富良野含む)十一部に割られ、氏は十一部長に任命されていた。その頃から長い間村議会議員を務め、当時の吉田村長と渉り合い、村の三羽烏(さんばがらす)といわれた人材と聞くが、現在では知る部落民はいない。良々知っていたであろう包子義一氏も若くして他界され、後藤氏の消息を知る者はない。
エホロカンベツの開拓に、偉大な尽力をされた後藤氏の人徳が何故か語りつがれていないのは残念の一語である。二十五戸の団体員で、子孫が残っているのは包子義昭氏だけである。
次に滋賀団体であるが、前述の通り明治四十年奥野仙蔵が十五戸で入植したが、団体長と兄忠五郎の子孫は、現在富良野市に居住されている。道議会議員、道選管委員長を務めた奥野善造氏は、江幌小学校の卒業生で、現在西島沼で元気で老人クラブのリーダーとして活躍中である。従兄の奥野甚也氏は平成八年に不帰の人となった。
また十勝岳温泉を開発された会田久左衛門氏も江幌出身者である。須貝留吉氏の娘と結婚され、小樽から昭和六、七年頃に江幌に来られたのである。氏は彫刻に非凡な才能を発揮され、滋賀神社の灯篭或いは江幌青年会館の門札の彫刻は実に素晴らしい。また絵画にも才能を持たれ、特に十勝岳を愛した氏が建設された凌雲閣に彫刻と絵画が各部屋にあり、宿泊客の目を楽しませたのである。
次に衣川(きぬがわ)団体であるが、明治四十三年、岩手県から村上兵馬氏を団体長に十二戸が入地した。静修との境界付近のため各戸は静修と江幌に入り交っている。村上兵馬氏は二刀流の達人で、気性も荒く野武士的気風があったと云う。江幌小学校が西八線二十八号から現在地に移転する頃の話だが、江幌から後藤氏、静惨から村上氏が毎夜の如く中瀬伝吉氏宅で討論された。村上氏は大刀を手に、後藤氏は中瀬さんのデレッキを持っての討論であった。
論議が激嵩して来ると中瀬さんのストーブは変形して用に立たなくなる事もしばしばであったというエピソードが残っている。激しい討論を重ねた結果、現在地に新校舎が落成、昭和四年十一月一日に分離していた学校が統合されたのである。
次に富良野市の清水旅館主、先代の運吉氏が明治四十年に借り受け、小作人十四戸を入れて四十一年から開拓されたカネキチ農場がある。二十六号から二十八号にわたり西六線から八線までの地である。
事務所は西七線大曲りの川縁にあったという。そこに明治四十四年澱粉工場が操業(私が小学校二年の時迄動力用の水車が残っていた)されていた。真向いの道路の上の落葉林の中にはカネキチ神社があった。現在のカネキチ神社は七線道路傍の二十七号と二十八号の一番高い場所に移転している。
当時の開拓者で現在残っている人は草分新生の若葉金松さんのみである。氏は先代の若葉与作氏の甥に当たり十六歳の時、福井県から養子として迎えられたという。与作氏は名寄の某造材師の山頭をして居り現新生の組内の土地を大半所有していたという。
若葉金松氏も青少年期の大半は内地だったから、義父から聞いた話だと笑っていた。
この様な状況で江幌の開拓が行われたのだが、その方達も昭和七年完成の江幌ダムの建設で立ち退きを受け、或いは昭和八年の豆景気の終息で江幌から出た者も多いが、昭和十八年には七十戸を越える戸数があった。昭和三十二年十一月に開拓五十年記念式典が行われ、本年は九十年を迎える。開拓の一歩を踏み出された先祖に感謝と報恩を申し上げてこの編を終える。
(江尻菊正記)
機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉