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旭野の開拓

旭野は地域形成系統が複雑で、幾度かの部制再編により大正六年の再編時点にあった十人牧場(旭野二上・二下)、多田牧場(現在演習場)、宮下牧場(旭野五・日の出に編入)山加農場(旭野三)第二安井牧場(旭野一)が旭野地域の基礎になっている。
最も早い明治三十六年入地の渡辺牧場、その後に入地した境牧場はいずれも成功に至らず、その形態は無くなり、山田牧場、藤井農場、多田牧場は譲渡や自作農創設によりその形態は消滅しているが、多田牧場は、その位置が現在演習場の中になっているヌッカクシ富良野川の両岸一帯で、演習場の「多田分屯地」となって、その名前が残っている。
地域形成の経緯を見ると、第二安井牧場(旭野一)は明治四十四年頃に、安井新右エ門が支庁から貸下して開いたが、その後、幾度かの売買があって牧場の形態はなくなり現在は地名としてだけが残っている。
十人牧場(旭野二上、二下)は明治三十八年に岩見沢の木田軍平、清水テイ、前田清作、江別の武田高蔵、岡沢政吉、佐藤久五郎、高松彦太郎、北村の正瑞喜太郎、上富良野の伊藤勇太郎、広 卯吉の十人が山田牧場を四百円で買受けたことから、仲介者である伊藤勇太郎が十人牧場と命名した。
山加農場(旭野三)は、現在の道道吹上上富良野線の両側にまたがった一帯を、明治三十七年に札幌の木材商人加藤岩吉が貸下げを受けたものである。管理者は西口三太郎で、山加(〈加)は加藤の屋号であり造材に使用した刻印でもあった。豆景気の頃には三十戸の小作で賑わったといわれるが、昭和四年に民有未墾地として開放された後は豆景気後の不況を乗り越えた人達が残った。しかし現在は道道の南側が買収され演習場になっており、北側も営農者は無く大規模な「かみふらの牧場」が設置されている。また山加農場は石材が多く搬出された地としても知られている。
多田牧場(旭野四)は大正十年に、多田安太郎が、白鳥三助、手塚慎一の三人で、宮下牧場(日の出)の中の沢地区を譲り受けたものであるが、多田牧場を藤井農場として売り渡した後、小作開放や戦後の農地改革、更に自衛隊演習地に応じた際に農場形態は消滅している。
藤井農場(旧旭野五)は、旭川の藤井六太郎が多田牧場を買い受けたもので、小作人は六、七戸あったが、昭和十二年〜十三年の自作農創設によって農場は消滅したが、現在は演習場の中になっている。
新井牧場の一部、旧旭野六は日新地域であったが通学区域の関係で旭野に編入されていた。現在は旭野二下に編入されている。
現在の旭野は北を日新と清富、西は日の出、南は陸上自衛隊の演習場、東は国有林に囲まれており、面積は約一・七〇九ヘクタール(平成七年現在)、平成九年四月現在三十八戸、百二十九人の地区であり、地域の中央部を走る道道吹上上富良野線は、観光や産業・生活幹線道路となっている。
(倉本千代子記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉