郷土をさぐる会トップページ     第15号目次

島津農場

島津農場は、三重団体より少し遅れて、明治三十一年六月、島津公爵の命を受け、海江田、園田の両氏が現地調査の結果、条件の恵まれている事を確認、早速先発隊を派遣して事業に着手した。翌三十二年、長沼村附近より二十五戸が移住し、次いで翌三十三年、更に二十五戸を招いて開拓に従事してもらったのだが、生憎両年とも、天候不順の為不作となり、生活不能の状態となったので小作者は、十戸程を残すのみとなった。五百町歩余の開拓という大事業に不安を感じとった管理人、海江田信哉氏は、暫時の方策として余り人力を要しない牧草を生産して師団に買上げてもらう様指導する事になった。
取敢えず、三十四年度、百町歩。翌年、百二十町歩。更に三十六年に至っては、札幌興農園に依頼して、ヘイレイキ、ヘイテッター、ヘイモアー、其の他二、三の洋式大農機械類を導入して、三名の技師に指導を受けさせ大々的な牧草地経営に踏み切った。
このような大事業は、北海道開拓史の一頁を飾るにふさわしく、又我が「かみふらの」事始め物語の圧巻でもなかろうかとも思われる。
私は当時の干草が保管されていたという細長い小屋を見ながら通学したのをまだ覚えている。
かくして管理人と小作人との息の合った努力が実を結び、農場全部を附与するという許可が、道庁より下ったのは、明治三十九年の事であった。
これより以降については、各地区との重複を避けながら列記の形となるが、四十年、用水組合が組織され、早くも東一線北二十号で塚本弥作氏が稲作を始め、四十三年には、笠原重三郎氏が水利権を取得、海江田管理人は緬羊、山羊、七面鳥などの飼育を始められている。
大正二年には、在郷軍人の実弾射撃場が、北二十四号に設けられ、又小作人一同の共同出資による農業用品や生活物資の購入、販売等の申し合せ組合が創立、次いで島津青年団が発足し、同時に島津公爵家より素晴しい団旗が下賜され、上富良野青年団の代表を勤めた程だったという。
大正八年、杉本助太郎氏が村議当選、又かねてから処女会として活動を続けていた女性等も正式な青年団として誕生、団旗を頂いた。昭和六年、島津農場の育成に心血をそそがれ、父の如く慕れていた海江田信哉翁の死去に逢うという悲しい出来事もあった。
昭和十一年に至って、村当局及び上部官庁の指導もあり自作農創設の適用を受け、海江田管理人の了解を得て、小作人の生活が良くなる事であればとの公爵家の判断により、全員が自作農となる事が出来たのである。翌昭和十二年、彰徳碑を建立して恩恵を謝し、島津部落の親睦を誓って今日に至っている。
(水谷甚四郎記)

機関誌 郷土をさぐる(第15号)
1998年3月31日印刷 1998年3月31日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉